日本人選手の大活躍を東京オリンピックの「光」の部分とすれば、その「影」には社会的負担を強いられる国民たちが存在します。当初予算7000億円として誘致されたミニマムなはずの五輪が、なぜ史上最高額の五輪になってしまったのか。ツケは私たちの血税で支払うことになります。五輪後にしっかりと費用を精査する必要があります。(『らぽーる・マガジン』原彰宏)
※本記事は、『らぽーる・マガジン』 2021年8月2日号の一部抜粋です。ご興味を持たれた方はぜひこの機会に今月すべて無料のお試し購読をどうぞ。
世界新記録が少ない東京五輪、「アスリートファースト」を見つめ直すとき
連日、日本選手のメダル奪取に湧く東京五輪ですが、開催国有利と言われることを除いても、日本のメダルは「獲りすぎ」という雰囲気はあるようです。
それだけ日本選手が「東京地元開催」を意識して、1年延期という厳しい環境に耐えながら練習してきた成果だとも言えますが、一方で、コロナ禍における外国人選手と日本選手との調整の違いがあるとも指摘されています。
実際、記録だけで見れば、今回の東京五輪大会では「世界記録更新」がほとんどないのですね。世界記録を更新して、メダル獲得というパターンが少ないことが指摘されています。
海外選手は、隔離された厳重な規制のある選手村、一部待遇を主張できる国はホテル滞在、日本人選手は選手村には入らないという環境の差は大きいとも言われています。
このことは、アスリートを非難しているわけではありません、大会運営のあり方を批判しているのです。コロナ禍における大規模スポーツイベント開催の是非を、もっと丁寧に議論しなければならないということを訴えているのです。大会組織委委員会に批判の目は向けても、アスリートは関係ないですから。
よく五輪開催を批判したマスコミが五輪開始後には五輪賛美のように報道していることを、「掌返し」と非難する声もありますが、大会開催は今でも反対ですが、そこで一所懸命に自分たちの力を発揮しているアスリートをリスペクトする気持ちがあっても、それはおかしくはありません。こういう批判合戦はやめましょう。レベルが低い不毛な議論ですから。
五輪の政治利用や利権まみれとか、中抜きとか私利私欲とか、アスリートにはなんの関係もありません。むしろ主張したいことは一貫して「オリンピックをアスリートの手に戻そう」ということですから。
選手が「五輪中止」を叫ぶ難しさ
アスリートたちの中からは、五輪開催中止の声をなかなか挙げられないでいます。そのアスリートである、ラグビー元日本代表の平尾剛氏は、ずっと「五輪開催中止」を主張してきています。
アスリートが声を上げること自体、すごく勇気がいることで、周りとの軋轢もある中で、あえて平尾氏は「五輪開催反対」を言い続けている理由として、2つのことを挙げています。
・オリンピック開催における社会への負担が大きすぎる
・行き過ぎたメダル至上主義
「行き過ぎたメダル至上主義」に関して、いろいろと話題になったオリンピック憲章には、「国ごとにメダルの数を数えてはいけない」と書いてあるのです。オリンピックは、国対抗のメダル争奪合戦ではないということを、ちゃんと明記してあるのです。知っていました…?
※参考:JOC – オリンピズム | オリンピック憲章
オリンピック競技が「勝利優先」「競争優先」のため、特に採点競技の場合、技術の披露を中心におくのではなく、メダル獲得のための無難な演技を強いられることへの矛盾を感じるアスリートも少なくないという“憂い”を、アスリートならではの目線で、平尾氏は述べています。