街の喧騒がまったく気にならない人もいる
私は5年ほど前に現在の新興住宅地に越してきたのですが、目の前は大きな公園です。
そのため朝は高齢者がゲートゴルフ、日中は近所の保育園の子どもたちが、夕方は近所の小中学生が遊んでいるなど、とても賑やかです。土日は毎週のように地域のリトルリーグの試合があり、歓声が舞っています。
しかし、私にとってそれらは、PCのファンが回る作動音と同程度で、何ら集中力を削ぐ音ではありません。というか何も気にならない。騒音とも感じることなくバリバリ仕事に集中しています。
それどころか保育園児がキャーキャー騒ぐ歓声は、どこかほっこり、懐かしさや温かいものを感じてウキウキするくらいです。
また、自宅は駅からも近く周辺は住宅地であるがゆえに、自転車や子どもが飛び出すことは珍しくありません。
前述の公園の前を車で通ると、結構な頻度でボールが飛び出したり、子どもが飛び出してきます。
それは住宅地であるがゆえに当然起こりうるという想定をしていますから、運転には気を付けますし、安全支援装置の付いた車に乗っています。
たとえば「新興国は治安が悪い場所があるから、注意して行動する必要がある」のと同じ感覚です。
道路族がいるからといって、自分の住まいを選ぶ際の材料としてはまったく考慮に値しませんし、それが理由で引っ越すなどとも考えらません。
しょせんは子どもの行為ですし、道路で遊ぶといっても1日1~2時間、さらに数年程度でしょう。
いちいちそんなことを気にするとか、そんなことに振り回されるというメンタルが私には理解不能なのです。
自分の子がイジめられているとかなら話は別ですが、他人の子の言動で自分の意思決定が影響されるような脆弱さには、むしろ不憫に感じるくらいです。
日本社会がストレスに弱くなっている
このメンタルの弱さは、前回「なぜベビーカーは蹴られるのか」でも述べたとおり、満たされない承認欲求や不平不満、目に見えない閉塞感が、他人のちょっとした非常識(に思える)言動にも過敏反応しストレスに感じてしまう、「けしからん」と沸点に達してしまうという、余裕の無さから来るのだろうと思います。
そうした子どもの行為を「親の怠慢」と主張する人もいますが、たとえば自転車などはむしろ大人の方が無茶な運転をするでしょう。
耳にはイヤホン、片手にスマホという、危機察知と危機回避に重要な「視覚」と「聴覚」の両方を放棄して歩く・自転車に乗るのはむしろ大人だったりします。あー恐ろしい。
横断歩道でも「俺は歩行者だから優先だ!車は譲れ!」と主張するかのごとく、普通は横断歩道で左右を確認してから渡るはずが、車で来るこちらをまったく見ないで強引に渡る人を見かけることがあります。
そうやって視覚を放棄するのは、リスクマネジメントよりも虚栄心が勝っているのでしょう。