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「宗教が差別を生む」元オウム上祐史浩が語る“宗教二世”問題の根深さ。宗教が力を失った日本はどこへ向かうのか?【後編】=鈴木傾城

2022年7月、安倍元首相が凶弾に倒れて帰らぬ人となったが、容疑者・山上徹也の殺害動機には母や財産を統一教会に奪われたので、SNSでしきりに関係を示唆されていた安倍元首相が象徴として選ばれたという事実があった。

そして、この統一教会問題ならびにカルト問題がクローズアップされており、自民党の屋台骨すらも揺るがす問題となって今も激震が続いている。

こうした中、かつて日本を震撼させたカルト教団・オウム真理教の信者であり、袂を分かち、現在は脱麻原・反麻原派を主張する「ひかりの輪」という宗教団体の代表をしている上祐史浩は何を思っているのだろう?

先日、この上祐史浩氏にインタビューする機会を得た。上祐氏は何を思い、何を感じ、これから日本の宗教や未来はどうなっていくと考えているのか。以下、前回のインタビュー記事に続く後編を公開したい。(『 鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編 鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編 』)

【関連】元オウム上祐史浩が語る「宗教二世」山上被告の弱さと旧統一教会の欠陥。第二の麻原は生まれるか?【前編】=鈴木傾城

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プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、主にアメリカ株式を中心に投資全般を扱ったブログ「フルインベスト」を運営している。

上祐氏にとっての「宗教」とは?鈴木傾城がインタビュー【後編】

第二の麻原は生まれるか?マインドコントロールの実態

(※前回記事の続きになります。)

鈴木傾城(以下、鈴木):教祖が無理やりマインドコントロールしたらどうなりますか?

上祐史浩氏(以下、上祐):統一教会も、オウムも、マインドコントロールの問題が言われていますが、私は、信者の潜在的な欲求とは関係なく、教祖や教団が悪魔のように信者を心理操作して別人格に作り変えてしまったという主張は、実際には間違っていると思います。

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上祐:実は、マインドコンロ—ル論は、国内外の心理学の専門家は、科学的な証拠に乏しく、統一教会でもオウムでも、国内外の教団関係の裁判では認定されたことがないのです。学者が言う通り、統一教会が100人や200人に勧誘しても入信するのは1人か、あるいは1人も入らないわけです。だから、信者側に、自らそうした教団・信仰を求める自分自身の欲求がなかったら、いくら教団が何かの心理操作技術を使ったとしても効果がないわけです。

そして、今現在は、勧誘される側のカルト教団に対する潜在的な欲求が減少してきており、実際に統一教会の信者を含めて新興宗教の信者は急速に減少し、高齢化してきている。こうして、社会的な土壌が弱っているから、今後はオウム的な宗教教団は出てきにくいのではないかと思っています。

言い換えれば、私は、統一教会に関して言われるマインドコントロールの話には、先ほど言ったように疑問を持っています。カルト教団は、あくまでも、信者になる人が潜在的に持つ自分の中の欲求を引き出して充足するものであって、信者側に何もないのに、意のままに人を操って、カルト教団を作ることができるわけではないと言うことです。

鈴木:教祖がマインドコントロールしようとしてもできない? 時代も変わってしまった、と……。

上祐:はい、教祖がマインドコントロールしようとしたとしても、信者側に潜在的な欲求がないと、カルト教団はできないと思います。言い換えれば、信者になる人側に、ある意味で、教祖や教団の意志に沿う形で、自分がマインドコントロールされたいと思う欲求がある場合に、信者になるのだと思います。

そうした欲求は、時代と共に社会とその価値観が変化してきた中で、減少していると思います。知り合いの創価学会会員から聞く限りでは、学会の宗教二世も、一世のような熱がなく、世代を追うごとに熱がなくなっているそうです。統一教会問題の発生後は、二世がどんどんやめているという学会の地区幹部もいます。

1960年代には池田大作さんを中心に、公明党と創価学会が一体として、あたかも創価学会政権を作ろうとするかのような信者の熱狂がありました。しかし、そうした者に魅力を感じる人がもはやいないことを示しているのが、創価学会を含めた宗教二世の変化だと思います。

オウムや統一教会をやめた人たちの場合も、中にいた時を振り返ると、「もうああいうのはやりたくないよ」と言うことが多いと思います。信者の時は、非常にテンションが高い心理状態だったが、今は「もういいよ、やりたくないよ」という感覚です。

鈴木:宗教にはある種の熱狂が必要ですが、そうした熱狂はすでになくなってしまっている。そうなると、教祖が扇動しても何も動かない。それどころか共同体すらも維持できないような状況になっている。それは興味深い状況ですね。

戦争と宗教の深い結びつき

上祐:この熱狂的な心理状態というものと関連して、先ほど少し述べましたが、人類が戦争を始めた時代の状況を調べた考古学者の見解として、宗教と深く結びついているというものがあります。

縄文から弥生になった時に水田稲作の本格的な農業が導入され、自分たちの先祖が開拓した自分たちの土地とか、自分たちの収穫物といった自己所有の概念が強くなりました。その状況下で、不作の時には飢餓が発生し、戦争・奪い合いが始まった。

しかし、ここで飢餓だけではなく、「宗教があってこそ、戦争が心理的に可能になったのでは?」というのです。大量の殺戮である非倫理的な戦争が、この土地の統治のために神に選ばれた者たちが行う聖戦と位置付けられてこそ心理的に可能になった。強い戦意が形成された。

また、戦士の中には死ぬ人もいますが、「死んだ時に神の国に召される」と説いて、その恐怖を和らげ、聖戦で殉教すれば幸福になれると思わせることができる。逆に、「逃げたら地獄だ」と説くことで、敵前逃亡を防止することができる。

こうして、宗教があってこそ、客観的に見れば、狂気の沙汰である戦争を遂行できたのです。より詳しく言えば、今も、ウクライナの人たちを見てもそうでしょうが、昔の戦争では特に、勝利のために最も重要な要素は「戦意」だったと思います。その戦意の形成を可能にして、最大化することができるものが、宗教だったというわけです。

当時のことを想像してみるならば、飢餓の危機の中で、生き残るためには、戦争が必要な状況があったが、戦争には強い心理的な抵抗があった。その中で、ある日、ある人に、神と称する存在が、「神はお前たちをこの土地を統べるために選んだ」というメッセージを語るという心理現象の体験があった。そのメッセージを聞いた同じ集落の人たちは、それに熱狂して、彼を司令官として戦争に向かい、勝利した。彼は、神の化身=王になり、死んだら、古墳に祀られた。というわけです。

鈴木:宗教が戦争を正当化する非常に有用なツールであったということですね。

上祐:ここで先ほどのキーワードの熱狂、ハイテンションな意識が出てきます。そして、カルトと言う言葉も、宗教学的な専門用語としては反社会的団体という意味ではなくて、熱狂的な信仰集団という意味なのです。

これは、宗教とは、宗教自身が主張するように、神が人に与えたものではなく、生き残ることを望む人間の無意識の脳活動が作り出した心理現象であるという解釈です。もちろんこの解釈は、神が人間に宗教を与えたと信じる自由を否定するものではなく、それとは異なる解釈が可能であることを示すものです。

考えてみれば、戦争は個人の欲求を集団のために放棄させる点で、非常にストイックなことだと思います。旧統一教会では、全財産を献金するような多額の献金が話題になっていますが、宗教が後押しする戦争は、自分の命さえ神の命のために捧げるわけですから、宗教の中で最もストイックな実践とも解釈できるかもしれません。

また、上意下達で、ストイックで、外部と対立して戦う点でも、カルト宗教は軍隊と似ています。信者の個人の欲望を放棄させて、教団の特定の目的に皆が向かっていきます。統一教会も勝共連合を作って、共産主義と闘う活動をしていました。

しかし、こうした組織は、現在のリベラルな個人の自由・人権を重視した価値観では敬遠される。そのため、今後、新たなカルト教祖の元に多くの若者が集まるというのは、今はちょっと考えにくいと先ほど申し上げました。

Next: カルト型宗教は教祖の私的な妄想?上祐氏にとっての「宗教」とは

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