大切な「津波てんでんこ」の発想
東日本大震災のときに多くの人命を救ったのが、三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」でした。これは、「何を置いても、自分が高台に逃げる」という言い伝えでした。防災計画がどうとか、津波防波堤がどうとか言っていても、極端に大きな災害ではほとんどが役に立たないわけです。
今回の北朝鮮の危機も同様です。本当に重大な事が起こった場合は、過去の歴史的な経験や教訓、または自分で考えることしか役に立ちません。
かつて戦争のときに何が起きたか?かつての朝鮮戦争で朝鮮半島がどうなったか?大都市部にミサイルが落下した場合に、何が起きるか?自分で考えるしかありません。
少し考えてみればわかりますが、有事が勃発した場合、朝鮮半島から脱出するのはかなり難しいでしょう。空港は閉鎖され、民間機は飛びません。また、日本の大都市部にミサイルが着弾すれば、想像を絶する被害が予想されます。
栃木のスキー場で発生した雪崩で、口のまわりの雪を食べて窒息を回避した生徒の話が報じられましたが、自分で考えた行動です。つまり、重大な事が起きた場合には、自分で考えるしか方法がないわけです。
忘れてはならない1950年朝鮮戦争の教訓
<6月25日(日)北朝鮮が宣戦布告>
1950年6月25日日曜日、北朝鮮が韓国に宣戦布告し、一気に攻撃を開始しました。
北朝鮮は、浦項上空に空軍機を飛ばし、その支援を受けて浦項に上陸。
ソウル飛行場を空爆。25日の午前9時半には、開城が北朝鮮側に陥落。
<6月27日(火)北朝鮮軍、ソウル入城>
国連安保理は、アメリカが提案した武力制裁の決議案を可決(ソ連欠席)。
アメリカのトルーマン大統領は米軍に出動を命令し、マッカーサー元帥に指揮権を付与。
<6月28日(水)ソウル陥落>
韓国軍は、北朝鮮側の初動攻撃で多くの上級将校が死亡して反撃の体制が整わず、6月28日にはソウルが陥落しています。
<6月29日(木)アメリカが空爆開始>
日本の福岡・板付飛行場(現:福岡空港)に、北朝鮮に備えて警戒警報。
福岡・門司・小倉・戸畑・八幡・佐世保に灯火管制。
6月30日(金)
38度線を超えて、アメリカが北朝鮮を空爆。
米国、中国への「原爆使用」も検討
1950年朝鮮戦争の序盤はこのような経緯です。とくに北朝鮮軍の戦車が強力で、韓国、アメリカは劣勢でした。その後は、1950年9月15日に国連軍が仁川に上陸して、反撃が本格化。
同年10月8日に、アメリカ軍が38度線を超えて北上しています。
そして、韓国・アメリカ軍・国連軍が勝利を確実にする中で、中国(中華人民共和国)が軍事介入(1950年11月6日)。
北朝鮮軍と中国軍が盛り返し、1950年12月1日、当時のトルーマン米大統領は、中国への原爆の使用も考えます。
戦況はそのまま一進一退となり、昭和28年(1953年)7月27日に休戦協定が結ばれて、そのまま現在に至ります。
激烈な地上戦
朝鮮戦争での戦闘員、一般人あわせた死者数は、400万人とも500万人とも言われています。とくに激烈な地上戦が特徴的で、投下された爆弾の量も、第二次世界大戦時の対日本への投下量をはるかに上回ると言われています。
朝鮮戦争の歴史を振り返ってみて、あらためて思うのは、膨大な犠牲者数です。正確な数字は判然としませんが、朝鮮半島という限られた土地で、激烈な地上戦が行われたためでしょう。
この経験が、その後の資本主義陣営と社会主義陣営の「冷戦」に繋がり、実際の戦争の歯止めになったのかもしれません。