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マスコミに私怨?安倍首相が報道に求める「公正・中立」の呆れた中身=不破利晴

本来、報道に「公正・中立」など存在しないし、する必要もない

安倍政権によるマスコミへの圧力は、同じ轍を踏みたくない安倍首相の強い要望によるところが大きいのだが、とはいってもマスコミに「公正・中立」を求めることなど、政治家による詭弁も甚だしいと言わざるを得ない。

これは、マスコミに「公正・中立」など存在するのだろうか、ひいてはマスコミに「公正・中立」など必要なのだろうか、といった根源的な問題でもある。

テレビや新聞が「公正・中立」であることは望ましい姿であるとする考えは、実は幻想に過ぎない。

それは、そもそもマスコミの役割が究極的には「権力の監視」にあるからである。実は、この本分を忘れてしまったマスコミがあまりにも多いために、日本のマスコミはかくも無残な体たらくを晒していると言っても過言ではない。

例えばアメリカなどを例にとると、政治に多少の関わりを持つ者ならば一般市民でさえ保守かリベラルかを明確にすることが求められるし、ジャーナリストも例外ではなく、保守orリベラル、政権寄りか反政権側なのかを鮮明にするのが常識となっている。

これは客観報道、つまり「公正・中立」などあり得ないという考えが前提になっているためである。

一方で、日本の記者の多くはいまだに「客観報道」を標榜している。権力が発表したものを「客観だ」とする感性は論外だが、真剣に「うちの新聞は客観的だ」と信じている記者が多いのには驚きを禁じ得ない。
この世の森羅万象の出来事を、また他人の営みを客観的に報じることができるのならば、それはもはや神の領域である。

出典: 上杉隆『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)

よって、アメリカの新聞などは大統領選があれば事前に社説で支持政党や候補者を掲げ、旗色を鮮明にする伝統を持っている。

こうした主張に対して、読者から「偏っている」という批判は皆無だ。なぜなら、支持を社説で明確にするにあたって、新聞は、各党、各候補者のマニフェストや政策、実現可能性を取材などによって仔細に検討した上で、支持を決定するからだ。しかも支持を明確にするのは社説だけで、いくら支持であろうと通常の記事や他のオピニオン面で、その政党や候補者に対して批判を取り下げるわけではない。むしろ自ら指示した政党や候補者だからこそ逆に厳しい目が注がれることもあるのだ。

出典: 上杉隆『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)

こうしてみると、アメリカの新聞各紙は政治についても客観性というよりは、むしろどの政党、候補者が望ましいか考えを述べ、それがマスコミ報道として上手くワークしているように思われる。

そのような事がなぜ可能なのだろうかと言えば、一重にマスコミがアメリカ国民のメディア・リテラシー(情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力)を信じているからではなかろうか。

Next: 100%出来レース!政権意向の忖度に余念がない日本の新聞各紙

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