米国では俳優・タレントが個別広告に出演することはほぼ皆無の状況
一方、1人あたり広告費で日本の2倍もの金額を投入する広告大国の米国では、個別のブランド広告に有名人の俳優やタレントが出演するというのはほとんどありません。日本で定着化したタレント広告は、定着化する気配がないまま今日に至っています。
むしろ米国では、CMなどの広告ではダイバーシティやLGBTへの配慮のほうが先行。テレビ広告を見ていても、すでに黒人や有色人種だけが登場する始末で、白人の男女は有名無名に関わらず完全に排除されるという、まったく別のアジェンダが業界を貫通しています。ハリウッドのトップスターも、短い期限付きで自らのブランドを企業に切り売りするといった姿勢は一切みせていません。
ただスポーツ選手に関しては、「ブランドアンバサダー契約」を締結することでロングタームで企業の商品ブランドに寄与することがありますが、その契約金は莫大で、ちょいと売れたジャニタレが国内のCMキャラクターに起用されるような話とはまったく異次元の状況です。
ブランドマネジメントの視点では、プロモーションにタレントが出てくる必要は皆無
本邦の消費者に対するコミュニケーションでは、タレントを広告に起用することが想像を絶する効果を発揮することがあるというのは上述の通り。とはいえ、ブランディング、さらに確立したブランドマネジメントの視点では、こうした実に流行に乗った一時的な有名タレントの広告起用というものはまったく必須のものではなく、世界のブランド市場から見れば、むしろ相当ガラパゴス的展開の過程に陥っていることがわかります。
とくに自社でリスク管理ができない有名タレントなどを起用した場合、その人物が社会的にありえない問題を引き起こしてブランドを棄損するケースは想像以上に多いのが実情。妙な“おクスリ”の利用が発覚・摘発されたり、不倫で家族がぶち壊しになるなどがその典型的なケースとなっています。
これまで所属事務所事態が問題を起こすというのはかなりレアケースでしたが、ジャニー喜多川の性加害の問題は完全にブランド棄損の大きな要因となっていることが感じられる状況です。
そもそもブランドマーケティングといったプロセスでは、「商品×広告×価格×流通×売り場」といった具合に、様々なファクターが掛け算で形成されていくことになりますから、その中のどれかがゼロになった場合、いくら掛け合わせても結果はゼロという悲惨な事態に陥るリスクは常につきまとうことになります。
いまやこのゼロファクターとして機能してしまいそうなのが「ジャニタレの起用」で、個別のタレントに罪は無いといくら言い放っても、その広告を見た消費者が背後にサブリミナル的にジャニー喜多川の問題を潜在的に意識したら、この話は完全にアウトということになってしまいます。