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テレビが伝えぬ「小池劇場」本当のみどころと安倍総理最大の不安=近藤駿介

連日繰り広げられる小池劇場で注意すべきは、野党「合流」という言葉である。これは安倍総理側に都合のいいミスリードで、ある種の悪意すら感じるものだ。(近藤駿介)

プロフィール:近藤駿介(こんどうしゅんすけ)
ファンドマネージャー、ストラテジストとして金融市場で20年以上の実戦経験。評論活動の傍ら国会議員政策顧問などを歴任し、教科書的な評論・解説ではなく、市場参加者の肌感覚を伝える切り口を得意としている。

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小池百合子の存在意義と「本当の演目」は10月5日に判明する

実は批判が多い?「小池劇場」

衆議院解散に合わせて小池都知事が「希望の党」の立ち上げを宣言してから1週間、メディアの主役は完全に「小池都知事」と「希望の党」になっている。

「小池都知事」と「希望の党」がメディアジャックしたような状況になったことをメディアは「小池劇場」と呼び、連日コメンテーターたちが「小池都知事の思惑通りになっている」「話題作りが上手い」と、褒めているのかけなしているのか分からない論評を加えている。

確かに、「希望の党」の設立が宣言されてからわずか数日で「二大政党制」の主役を務めるはずであった野党第一党の民進党が実質的に解党に追い込まれるなど、「小池バズーカ」はメディアジャックするに十分すぎる威力を見せている。

しかし、連日繰り返される「小池劇場」を見ていて感じるのは、確かに小池都知事はメディアジャックに成功してはいるが、その内容は批判的なものが多く、必ずしも小池都知事や「希望の党」の好感度向上に繋がっていないということである。

的外れな2大小池批判とは

「希望の党」の登場によって、既存の政界の枠組みの中で「野党第一党」という重要な立場を保っていた民進党があっという間に蹴散らされ、既存の政界の枠組みは破壊されてしまった。こうした既存の秩序が簡単に破壊されてしまったことに対する警戒感が強まったせいか、「小池劇場」での演目は「反小池」色の強いものが目立ってきている。

「小池劇場」で真っ先に演じられるのは、都政と国政の「二足のわらじ」問題である。政治の専門家を含めてコメンテーターたちは、連日続けられる「小池劇場」で「都知事に就任してわずか1年ちょっとで国政に転じるのは無責任だ」という無責任論や、「『都民ファースト』ではなく『自分ファースト』の人」といった政治家の資質に関する批判を繰り返している。

しかし、「小池劇場」で繰り返される、こうした小池都知事に対する無責任論、政治家としての資質に関する批判には違和感を覚えずにはいられない。

それは、これらの批判が「小池劇場」がなぜ始まったのか、という原点を見失ったものに見えるからである。「小池劇場」の発端は、17日に突然永田町に吹き始めた「解散風」であり、25日に安倍総理が行った解散会見であったことを忘れてはいけない。

「国難」を前に、敵の足を引っ張るだけでいいのか?

安倍総理は今回の解散を「急速に進む少子高齢化」「北朝鮮の脅威」という「国難」を乗り越えるための「国難突破解散」だとしている。

安倍総理が掲げたこうした「国難」が、今すぐに解散、総選挙で国民の信を問うべき切迫した問題であるかに関しては様々な意見が出されている。しかし、解散が総理の専権事項であるという現実がある限り、解散の「大義」を議論するのは必ずしも建設的だとはいえない。

重要なのは、解散、総選挙の「大義」が、本当に安倍総理の言うとおり「国難突破解散」であるのであれば、国民の英知を集めてその解決にあたるのが当然だということである。切迫した「国難」を目の前にして、「二足のわらじ」問題を持ち出して「都知事は参加するな」と迫るかのような責任論に「大義」があるかは大いに疑問である。

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