平安時代よりも、近現代史にもっと力を入れるべき
それに歴史を知らなければ、たとえば尖閣や竹島の問題も、北方領土も語れないし議論もできません。だからその背景や生い立ちを知らない人たちは、たとえば憲法9条改正問題や日米地位協定、日米安全保障条約などの問題も、単なる感情論のぶつかり合いになっているのが現状です。
さらに近現代史には、近代戦争の背景や核不拡散への取り組み、世界恐慌にバブルとバブル崩壊など、これからも繰り返されるであろう重要な事象が多く、これらのメカニズムを学ぶほうが、より有益ではないでしょうか。
しかし検証不十分という理由があるのか、学校ではほとんど時間が割かれず薄っぺらくなります。時間切れで近現代にはほとんど触れないという学校も少なくないようです。
それなのに、平安時代や鎌倉時代にやたらと詳しくなっても、特にうれしいことはないでしょう。
感受性を封じ込める「国語」
あるいは国語。日本の国語教育の問題は、著者の主張・著者の思考をなぞって同調することしか許されず、自由な読み方ができない点です。
小説は自分の感受性は封じ込められ、「感じ方」まで強制されます。随筆や評論は、読むことは許されません。
実際には著者が間違っているとか、ある場面では大切でも環境が変わればそうでないとか、疑ったり著者に自分の考えをぶつけたり、自分の考えを整理したりしながら読むことで豊かな読書になるわけですが、クリティカルな視点を持ったり、著者と違う意見を持つことはできないのです。
最新の研究結果がわからない「生物」
生物なども、日本の教科書には最新の研究結果が織り込まれることがほとんどありません。実験も、答えがわかりきっていることを体験させるだけ(それはそれで必要なことかもしれないですが)。
反面、たとえばアメリカでは、エイズや喫煙による問題など、日常生活に関連付けて学べるようになっています。どちらが子どもが興味深く学ぼう・学びたいと感じるでしょうか。
「能力開発」がまったく足りない
これは別にアメリカなど欧米の教育を礼賛するというわけではありません。計算などは日本人のほうが強いことを考えると、欧米のカリキュラムにも不足はあるでしょう。
それにもちろん日本の学校教育も進化はしていますが、やはり、「テストで効率的に良い点数をとるのための教育カリキュラム」が中心で、学校教育のあらゆる姿勢が「受験」に向かっている側面があります。
それはそれで学校の重要な役割ではありますが、じっくり考える、他人と違う発想をする、既存の常識を疑う、新しいものを創造する、といった能力開発がおろそかになっているという危機感があります。