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アベの知らない物語~オバマ広島演説に垣間見たアメリカの「世界観」=不破利晴

卑小な官僚作文でしかなかった安倍首相の所感

これは、アメリカ大統領の広島訪問という外交的偉業に対して、従来通り外務官僚に準備させたものと推察できる。事は外務省の大手柄でもあるから、外務省としても譲れない一線である。そして、この“官僚による作文”がこれまた従来通り、お粗末に尽きるのだ。

まず出だしである。

「昨年戦後70年の節目に当たり、私は米国を訪問し、米国の上下両院の合同会議において、内閣総理大臣としてスピーチを行いました。あの戦争によって、多くの米国の若者たちの夢が失われ、未来が失われました。その苛烈な歴史に改めて思いを致し、先の戦争で倒れた米国のすべての人の魂にとこしえの哀悼をささげました」

日米のあまりのレベルの違いに眩暈がするほどだ。

冒頭で文章は出だしが重要であると言った。出だしが全てであると言った。ところが安倍首相の所感のひどさは一体何だ。

冒頭のフレーズから「私」がアメリカを訪問し「スピーチ」を行った、と言っている。広島の、しかも死者を追悼する神聖なる場所において、いきなり私という「自分」に触れてどうする!

しかも、その私による米議会スピーチといった「手柄」に触れてどうするのだ?

やはり安倍首相は、自分が可愛くて可愛くて仕方のないナルシスト、あるいは、言いようのない深刻なコンプレックスを抱え、自分で自分の偉業を讃えることでしか自分の価値を見出せない承認欲求の塊なのだろう。こういった所感の端々にも、そんな倒錯した思いが見て取れる。

また、これまでの安倍首相による演説でも頻繁に出くわす言い回しなのだが、今回もそんな言い回しがあったので、ここに指摘したいと思う。

「とこしえの哀悼をささげる」
「心の紐帯(ちゅうたい)を結ぶ友となる」
「あまたの御霊(みたま)の思いに応える」

――といったフレーズがそれである。

この「とこしえの哀悼」や「こころの紐帯」、そして「あまたの御霊」といった言葉は、保守系とくに右翼と呼ばれる面々が多用するもので、日本独自の言葉、独自のニュアンスを秘めた言葉である。

そしてこれを書いたであろう官僚は、これらを採用することで多少は自分の知識に自画自賛しているかもしれない、そんな印象を抱かせる言葉群でもある。

英訳で消える日本語のニュアンス

しかしどうだろう。これらの言葉は、英訳するとき、どうしても一般的な表現にならざるを得ない致命的な問題を孕んでいる。言葉の持つオリジナリティに満ちた独自のニュアンスは間違いなく消滅するだろうことは避けられまい。

だったら、こんな言葉を使うのは間違いなのではないか?もっと一般的な表現に置き換わるような言葉を使って、なおかつ人々に訴えるフレーズを組み立てるべきではないのか?

そういった疑問、要望に応える方法はもちろんあるのだ。つまり、使うのは普通の辞書にも記載のあるようなありふれた単語であっても、それらを組み合わせることで「イメージを喚起する」ようにフレーズを構成してゆくのだ。

「イメージを喚起する」と言うと使い古され、曖昧模糊といった印象を持つ向きも多いかもしれないが、実際はそうとは言い切れない。

冒頭のオバマ所感をみると、最初のフレーズがまさに「イメージを喚起する」表現で構成されていることに気がつく。

「空から死が降ってきた」
「閃光と炎の壁が街を破壊した」
「自分自身を破壊する手段を手に入れた」

単語の一つひとつはごく一般的なものであっても、それらが組み合わさることで大きなイメージとなって我々の想像力を刺激してくるものだ。日米の言い回しを並べてみると、両者の個性がはっきりと浮かび上がる。

日本→「とこしえの哀悼」「心の紐帯を結ぶ」「あまたの御霊の思い」
米国→「空から死が降る」「閃光と炎の壁」「自分自身を破壊する手段」

それでも、やはり日本的な表現を好む方が多いと予想できるが、残念ながらこれらの言葉のテイストは英訳した時点で消滅するものだ。そして、日本のような先進国の一員は自国語の英訳表現に意識的でなければならない。

なぜなら、ドルが基軸通貨であるように、英語は共通言語であるからだ。だから、日本の閣僚は平易な言葉で人々のイメージに突き刺さる表現を構成する必要に迫られるのだ。

そして、この「人々のイメージに突き刺さる表現」を別の言葉で言い換えれば、それこそが「世界観」なのである。

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