尊敬されていた佃亮二氏
佃氏は、福岡銀行の頭取時代も全くいばる様子もなく、的確な経営判断で、内外から高い評価を得ていました。物腰も柔らかく、多くの人から愛される存在だったのです。
佃氏は、物腰が柔らかい反面、腹が座った方でした。佃氏は、昭和6年(1931年)生まれ、熊本県玉名市の出身。中学の時には、満州鉄道幹部の父親と満州にいて、終戦の際のソ連・中国の攻撃を直接経験しています。このときの経験があるので、戦後はよほどのことでも動じなかったのでしょう。
日銀を経て、福岡銀行の副頭取、頭取となり、2000年まで、約10年近くも福岡銀行の頭取を務めました。現在の福岡銀行の基盤を、つくり上げたとも言えます。
こうした、福岡銀行の元・頭取である佃氏ですが、一方で、「プラザ合意」「バブル崩壊」の生き証人でもありました。
プラザ合意後に、日銀が「高目放置」
佃氏は、「プラザ合意」の際の日銀の実務者であり、当時、三重野氏と日銀を動かしていました。
1985年に「プラザ合意」があり、ニューヨークのセントラルパーク近くのプラザホテルで、先進5ヵ国がドル安で合意。
ドル円の為替レートは、1ドル=235円付近から、1年後には1ドル=150~160円付近へと、急激な円高が進みました。
この後に日銀は、「高目放置」といわれる短期金利の事実上の高め誘導を行い、金融引き締め効果で、さらに円高に拍車がかかったといわれています。
そしてその後、円高が落ち着くと日経平均が暴騰。そして、1990年のバブル崩壊へと続きます。
佃氏は、バブル崩壊後にも高金利を続ける三重野総裁に、バブル崩壊後に、引き締めすぎだと懸念していました。
しかし、三重野総裁はマスコミに「バブル退治」と持ち上げられて、金融引き締めを続け、地価と株価の暴落策を続けていたのです。
佃氏は、バブル崩壊後しばらくまで日銀にいて、こうした経緯を熟知した実務者でもありました。
日銀の政策の誤りについて最も良く知る人物であり、「生き証人」であったのです。
プラザ合意で日銀がどう動き、また、バブル崩壊の前後に何が起きていたのか?
貴重な証言者でもあった佃氏は、多くを語らないまま、この世を去ってしまいました。