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パクリ商法を封じても中国は潰れない。今後、ファーウェイほか中国企業が技術覇権を握るワケ=高島康司

本当に知的財産の盗用だけが成長要因か?

また、日本の主要メディアでは、中国が知的財産権の侵害を繰り返して日米欧の先端的な技術を盗んだことが、中国のテクノロジーが急速に発展できた理由であるとする報道が目立つ。

たしかに、中国の知的財産権の侵害は目に余るものがある。だが、これでは先端的なテクノロジーが発展している説明にはならない。「ファーウェイ」の5Gや、いま開発が急ピッチで進められている6G、また量子暗号の人工衛星や量子コンピュータ、そしてAIなどの中国の先端的なテクノロジーは、すでに欧米の水準を凌駕している

また、半導体製造技術でもそうだ。2015年までは「クワルコム」のような世界最先端の工場では、製造可能な半導体の限界は20ナノメートル台だった。2016年からは10ナノ、そして2019年に稼動する最先端工場では7ナノ、2020年には5ナノが稼動すると見られている。そのような状況で、昨年までは中国の先端的な工場で製造できる限界は22ナノであったが、2019年には、なんと5ナノの製造が「AMEC」というメーカーですでに始まっているようだ。あまりに急速な発展だ。

このようなテクノロジーは、米欧日の水準を越えている。既存のテクノロジーをスパイするだけでは、これを越えるテクノロジーの開発は不可能である。

先端的なテクノロジーが急速に開発できた理由は、他にあるはずだ。

文化大革命と人材の流出

筆者はかねてからこうした疑問を持っていたが、それに明確に答えてくれる本があった。それは、遠藤誉氏の『中国製造2025の衝撃(PHP研究所)』だ。この本は、中国政府が掲げる国家的な発展計画、「中国製造2025」の基盤となっているものが見えてくる。

そのひとつは、文化大革命後の人材流出と、1990年代終わりから始まるその激しい帰還の流れである。

周知のように中華人民共和国が建国されたのは、1949年である。そして、建国間もない1953年から1957年にかけて実行されたのが、「第一次5カ年計画」であった。この期間、ソ連の援助もあって、戦乱で荒廃した国土の復興が進み、経済は大きく成長した。そして、社会主義経済の移行も始まった。

この結果におおいに満足した毛沢東は、1958年からは、「大躍進政策」と呼ばれる極端な政策を推し進めた。社会主義化を一層推し進めると同時に、中国を一気に工業化して、15年でイギリスに追いつく水準にするというものだった。しかし、その結果は惨憺たるものだった。農村では原始的な鉄の生産などが強制されたため、食料生産は大きく落ち込んだ。その結果、4,500万人が餓死した。「大躍進政策」は1961年まで続いた。

その後、この政策の間違いに気づいた共産党は、毛沢東に代わり劉少奇を国家主席に選んだ。劉少奇は私有財産を認めて経済の自由化を推進し、経済は回復して成長した。

しかし、権力の喪失を恐れた毛沢東は、青年層の感情に訴えて勢力の盛り返しを図ろうとし、新たな革命を宣言した。「文化大革命」である。

毛沢東の熱狂的な信者である「紅衛兵」によって推し進められた毛沢東主義の革命は、毛沢東本人の予想を越えて進行し、全国の大学は閉鎖され、学生は地方の農村に農業労働力として強制的に送られた。「下放」である。「文化大革命」は1977年まで10年間続いたものの、この間に中国経済は大きく落ち込み、停滞した。

そして、鄧小平が権力を掌握し、現在に続く「改革解放政策」の実施を宣言した3年後の1981年から海外留学制度が始まり、その後、留学許可の枠は順次拡大した。

これに応じたのは、農村に「下放」され、「文化大革命」の10年間、学習の機会を完全に奪われていた大学生であった。そうした学生による留学ラッシュが始まった。そして、かなりの数の学生は、ハーバード、MIT、スタンフォードといったアメリカの名門校への入学を果たし、PhDを取得するものも多く現れた。そうした人々のうち、相当数が当時は勃興期にあったシリコンバレーの企業に就職し、最先端テクノロジーの開発に携わった。また、後に注目されるベンチャーを立ち上げたものも多い。

Next: 海外で学んだ優秀な人材が中国に凱旋帰国

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