物価が安くなるデフレを良いことだとする珍説をたまに見かけますが、明らかな間違いです。デフレは数十年のタイムラグをともなって、国家崩壊をもたらします。(『「ニューヨーク1本勝負、きょうのニュースはコレ!」連動メルマガ』児島康孝)
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日本をデフレにしておけば、何もしなくても壊滅的な結果になる…
「松方デフレ」が日本を戦争に導いた
1881年(明治14年)、大隈重信に代わって大蔵卿に就任した松方正義。
それまで、大隈重信がインフレ政策をとっていたのに対して、松方は緊縮財政や不換紙幣の焼却で、「インフレ対策」を進めます。
また、官営工場の払い下げを進めるなど、今でいうところの、緊縮財政・民営化路線ですね。
これに伴って日本社会はデフレとなり、農村部で貧困化が進み、財閥との格差が拡大しました。
1884年(明治17年)には、困窮した農民などが「秩父事件」を起こしています。
これは、生糸相場の暴落や、緊縮財政による増税の中、自由党員と生活苦に陥った農民が「秩父困民党」として蜂起した事件です。
「松方デフレ」のこの時期には、困窮を背景にして、こうした騒乱が相次いでいます。
松方正義はその後、大蔵大臣・総理大臣を断続的に続け、1917年~1922年に内大臣を務めたのを最後に、1924年(大正13年)に死去しています。
戦争でしか「デフレ経済」を払拭できなかった
一方、大隈重信は、1898年(明治31年)のわずか4ヶ月間あまりと、大正デモクラシーの時代の1914年(大正3年)から1916年(大正5年)の2年半のみ、総理大臣を務めました。
当時の日本では、全体としては松方正義の「デフレ的な政策」がベースとして長く続いています。
この松方正義がつくったのが、実は、日本銀行です(妙に納得ですね)。
デフレ傾向にある金融政策は、数十年のタイムラグで顕在化してきます。その後の日本の軍国主義化や226事件(1936年)も、農村部の極度の貧困が背景にありました。
つまり、松方デフレから始まった一連の金融引き締めが、その後の日本を暗い時代に引き込んだと言えます。
こうしてデフレが20~30年のタイムラグで人々の暮らしに浸透して顕在化するということから考えますと、全体としてのデフレ的な経済の払拭は、第二次世界大戦での壊滅的な破壊による、需要と供給のバランスの回復でしか元に戻すことはできなかったということです。