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日本景気は後退から次の局面へ、株価の大底を探る「景気低迷期」へ突入する=山崎和邦

日本にとって「8月15日という日の意味」

1:それは1945年8月15日の敗戦の日だけではない。

2:1971年8月15日に、ニクソン元大統領が一方的に決めたドルの切り下げで、日本円は360円の固定為替制度から一挙に17%高の300円がらみの市場為替度への切り替えを迫られた日である。当然、日本の株式市場は大荒れに荒れた。

私ごとになるが、筆者は夏休みで家族とともに信州の高原にいたが慌てて会社に飛んで帰った。

1970年当時、アメリカ行政府は公にはドルの切り下げに言及しなかったが、国際社会ではドルの切り下げがあるのではないかという噂が何ヶ月も前から流れていた。日本では当時の大蔵省国際金融局の指示で、これを1971年6月発刊された当年度の経済白書に一行も書くことを禁じられた。

(★註:ここで1999年秋の日本経済学会での筆者拙論発表時の件を記すと、当年の白書にその予測が一行も触れていなかったことを筆者が難詰したことに対して、発表会の会場でそれを聞いていた元経企庁官僚が当時の実態を話した)

経済白書が出て2ヶ月後の1971年8月15日にアメリカはドルの金への兌換を停止し、ドル平価を切り下げるということにした。これの狙いは輸入品の価値を高くして輸出品の価格を低くしようというアメリカの自国本位のことであった。これが日本市場に伝わったのは8月15日の東京証券市場の立会時間中であり、もちろん大暴落した。日本の証券史上においても現代史においても、これを「ニクソン暴落」としている。

アメリカでは、ドル平価の切り下げは給与や物価の統制に比べると深刻なことではなかったようだ。ニクソン演説の翌日にNYでは株価の高騰が起こった。その後主要国の通貨は変動相場制を維持することになり、金本位制が放棄された。これまでドルの価格は金に裏付けられていたが、金本位制の放棄で、ドルが価値の基準を失うのではないかという恐れが内外に広がった。

1972年末ドルが大幅に下落すると同時に、日本の通貨が評価され始めると為替市場は不安定になり、続いてポンドが大幅に下落した時、イギリスの銀行システムを危機が襲った。当面の混乱を防ぐためにアメリカを中心とした臨時の為替平価を定め、当年8月15日までは365円を固定為替としていたものを臨時に308円に決めた。これはその会議があった場所をとって「スミソニアン体制」と呼んだ。

これは1971年12月8日のことであった。ニクソンが金兌換を廃止し、ドル平価を切り下げたのは8月15日、スミソニアン体制は12月8日、前者は日本国がポツダム宣言を受託し所謂敗戦の日である。そしてスミソニアン体制の30年前のこの日に真珠湾攻撃をし、対米戦争が開始された日であった。

この8月15日と12月8日という日をニクソン声明の日とスミソニアン体制の日に敢えて意図的に合わせたのか、それとも偶然の結果だったのか、筆者は当時から前者を意識していたが、現代史のうえでそれを論う者がいなかったか、筆者のみが聞こえなかったか、いずれかであるが、それは今日まで論じられなかった。

時事評論や金融史上でも26年前の8月15日と30年前の12月8日との「偶然の一致」は述べられていない。

(★註そのニクソン発言を根拠に、「日本の終戦記念日を意図的に狙ったのではないか」とする見解も存在する。ただし声明は日本時間で8月16日午前10時で、またアメリカ人にとっての戦争が終わった日は8月15日ではなく8月14日である。これについての詮索は本稿の本筋と関係ないので割愛する)

3:16年8月はアベノミクス相場で始動点から2.4倍になった「壮年期相場の終焉の舞台」となった、いわゆる「チャイナショック」が始まりの月であった。

4:今年は8月2日から3日間で三空を開けての大幅急落を起こした。8月という月は、とかく何かが起きる月だった。

5:07年8月10日は、サブプライムローンの破裂で仏パリバ銀行が破綻に瀕し、これが翌年のリーマン・ブラザーズ証券の破綻の契機を作った。

6:18年8月15日は、トランプの対トルコ措置によってトルコリラが半日で25%暴落した日だった。

Next: 追加関税を発動し、さらに一部を解除したトランプの意図とは

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