【遅過ぎた香港の民主化】
俣野:なるほど。そもそも今回のデモは、何が目的なのでしょうか?
S理事:キッカケは、容疑者の身柄を中国本土へ移送できるようにする「逃亡犯条例改正案」に反対してのことです。
実はこの改正案は、2018年に台湾で殺人を犯したとされる香港人の容疑者が、香港に戻って台湾当局の訴追を逃れていることから、容疑者引渡しのために出されたものです(朝日新聞Web版、2019年6月15日)。
ところがこの改正案には、容疑者を本土に引き渡すことができるという内容が含まれていたため、可決してしまうと以後、中国政府が拡大解釈をしてくる可能性がありました。これが、民主派を中心とした香港市民の猛反発を受けることになったのです。
現在、この改正案は、市民の反発を受けて、無期限延期から「事実上、葬られた」と香港の林鄭月娥(りんていげつが)行政長官が発言するなど、ほぼ撤回された状態になっています。しかし市民はなお、5大要求を求めて抗議を続ける姿勢を崩していません。
5大要求とは、次の5つです。
1)改正案の正式撤回
2)暴力に対する政府側調査委員会の設置
3)デモを暴動と断定した政府見解の取り消し
4)デモ参加者の訴追見送り
5)正式な普通選挙の実現
林鄭行政長官は「対話したい」とコメントを発表したものの、5大要求に対してはコメントを控えています(日経新聞Web版、2019年8月21日)。
俣野:もとを正せば、香港人はほとんどが移住華人の子孫ですよね?中国にも多くの人民が普通に暮らしていますが、彼らとの違いは何でしょうか?
S理事:話は、香港が開港した時にさかのぼります。香港が急速に発展し始めたのは、清国(中国)がアヘン戦争に敗れた結果、イギリスに割譲・租借されてからのことです(1842年)。
この後、香港では宗主国イギリスによる独裁体制が敷かれました。香港は、もとは移民・難民の寄せ集めのような街で、多くの人にとっては“仮の住まいだ”という思いがあったようです。
香港の人たちにとって、宗主国への反感は当然のことですが、本国である中国に対しても、1949年に社会主義国となったことで、「いつか共産党が攻めてくるかもしれない」という恐怖心を抱くようになりました。
転機となったのは、いよいよ租借期限が近くなってきた1980年代に、イギリスが方向転換を始めてからです。香港を民主化することで、イギリスは中国との交渉を有利に進めようとしたのだと言われています。
俣野:香港の民主化は、かなり後になってからの話なんですね。