仏の顔は1度だけ。優秀な人材を見極めるのは「同じ質問かどうか」

仏の顔も三度まで、とは言いますが、三度も同じ話をさせる人はビジネスでは「使えない人」に認定される。そう話すのは無料メルマガ『サラリーマンで年収1000万円を目指せ。』の著者・佐藤しょうおんさんです。佐藤さんはビジネスで優秀かどうかを見極める方法を紹介しています。

同じことを訊かない

私がサラリーマン時代に、その人が優秀かどうかを見極めることに使ったのが、同じ質問をするかどうかなんです。特に重要な情報については、同じ話を何度もさせる、つまり質問してくる部下は、例外なく使えない人でした。

もちろん重要なことについては、これは重要なことだから必ずちゃんと覚えるんだよ、とクギを刺しているわけで、そうやって伝えられたことをあっさり忘れる、言われたことができない、間違った解釈をするとなると、人の話を聞いていたわけ?ってことになるわけですよ。

ここで私の若い頃の話をすると、とあるバイト先でメチャメチャ厳しい社員の人がいまして、社内で怒鳴るなんてのは当然で、つまらないミスをしようものなら、1時間くらい叱るんですよ。そこには若い女性のアルバイトもたくさんいたんですが、その社員が部屋に入ってきた瞬間に、空気がビシッとするというか、ピリピリという音がする雰囲気が漂うんです。

その人がまた記憶力が良くて同じことを説明する時には、

● お前にこれを教えるのは、これで2回目なんだぞ!

って言うわけですよ。ま、繰り返し教えてくれるのは、2回目までで、3回目からはケリが飛んできました。

今じゃそういう人ってパワハラって呼ばれてしまうわけですが、私はこういう人に厳しく躾けられたために、背中に一本太い線が入りました。その結果同じことを訊かないように、相手に言わせないようにする姿勢が身に付いたんです。ま,何度も怒鳴られたので、自然に身に付いたところが大きいんですがね。

想像力と行動力が鍵。古い文化施設を民間の指定管理者が運営する困難

公共施設の運用管理を自治体が民間に委託する指定管理者制度が導入されて今年で20年。日経新聞は、この制度により生じているひずみなど、現状の課題を連載記事で伝えました。さまざまな困難があることを認めながらも、民間のノウハウによって誰もが「普通に」文化施設にアクセスできるようになることを期待するのは、生きづらさを抱えた人たちの支援に取り組む引地達也さんです。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、古い文化施設のバリアフリー化には限界があり、サービス提供側に想像力と行動力が必要になると説明。11月30日にそうしたテーマも含むシンポジウムが開催されると伝えています。

民間指定管理者からはじまる文化施設と障がい者の良好な関係

文部科学省の委託研究事業である障がい者の生涯学習を推進する中で、公共施設における「場づくり」研究を、サントリーパブリシティサービス社(SPS)と行い、そこから派生する形で「インクルーシブ&ダイバーシティな場づくりを考える 民間指定管理者による公共文化施設のサービスからの学び」(11月30日、東京都中野区)を企画した。

民間指定管理者とは、公共施設の管理・運営を自治体などの公共団体から委託された民間の企業・団体のこと。この指定管理制度が導入されて今年で20年に合わせ日本経済新聞では文化面で「指定管理者制度20年の功罪」(10月23日─25日朝刊)との連載記事で制度の実態を検証している。

民間の考えを公共施設に取り込む「功」にはまだまだ地域を活性し、これまで硬直してきた「ケア」に関する場づくりにも新しい風を起こす可能性が高い。

日本経済新聞の記事(10月23日)は、20年経たこの制度について「経営効率化による専門人材の大量離職などひずみも生じ、地域の文化芸術を振興する施設の使命が揺らいでいる」との問題意識を前提としている。

記事では「集客やサービスに民間のノウハウを生かせる一方で、働く人の待遇悪化や不安定化、定期的に事業者を選定し直すことによる長期的視点の欠如といった点はかねて問題視されてきた」のが現状と伝えた。

文化施設が持つ役割全般に対応するこの管理事業は確かに高難度な仕事で、そのノウハウを持ち、かつマネジメントを的確に行うのは至難である。それでも民間のサービスの概念は、自治体が直営する公共施設では新鮮かつ、今後必須であろう。さらに障がい者が「普通に」文化施設を利用できる場所にする契機にもなると考えている。

この記事の著者・引地達也さんのメルマガ

落語家の方が似合っている政治家と政治家をやるべき落語家のこと

沖縄県民が苦しむ基地問題は、なかなか国民全体の関心事とならないのが現実です。憤懣やるかたない思いを抱え、10月19日に新宿での街頭宣伝に加わったのは評論家の佐高信さん。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、「沖縄問題はしょせん政治家も国民もひとごと」と語った落語家の立川志らく師匠の基地問題に関する数々の発言を紹介。志らく師匠に政治家になるべきと勧めた糸数慶子元参議院議員の言葉と、麻生太郎氏には落語家になったほうがいいと話した民主党議員の言葉を並べています。

普天間基地は那須の御用邸に

10月19日、新宿駅南口前で沖縄を見捨てるなと訴え続けている山城博治と共に街頭宣伝をした。他に福島みずほと辛淑玉がアピールしたが、沖縄返還の際の首相、佐藤栄作の名前を子どもにつけている沖縄県民が少なくないという辛の話に愕然とした。

ノーベル平和賞をもらった佐藤がまったくそれに価しない人間であるとことは明らかだろう。しかし、沖縄県民は“本土復帰”に望みを託したのである。それを政府は何度も何度も裏切った。

立川談志の弟子の志らくという落語家がいる。ある時、彼は「平和憲法と沖縄の基地問題」というトークショーに沖縄選出の国会議員、糸数慶子と一緒に呼ばれ、普天間の基地問題について語った。

「普天間の移設の件ですが、国外が無理、国内でもどこもいやだとなるとどうにもならない。私はこれだけ広い日本なのだから、どこかあるはずだと日本地図を広げて探しました。普天間の基地は東京ドーム103個分の広さ。ありました。ぴったりの場所が。那須の御用邸。あそこは東京ドーム140個分の広さがある。すっぽりはまるんです。東京ドームが37個残れば陛下が散歩するぐらいの広さは残るし。陛下ににらみを利かせていただきましょう。米軍よ馬鹿なまねはするなとね」

『志らくの言いたい放題』(PHP文庫)によれば、これには爆笑が起こったという。それで志らくは続けた。
「沖縄問題はしょせん、政治家も国民もひとごとなんですよ。沖縄の痛みなんかだれもわかっちゃいない。この沖縄問題をよい方向に持っていくには、沖縄出身の政治家が総理大臣になればいいんだ。それを実現させようではないか」

さらに盛り上がったところで、糸数が口をはさんだ。
「志らくさん、知っていますか。米軍の兵隊が夏休みをとって国に帰っている間、基地に人がいなくなっても食べ物やなんかを腐らせてはいけないという理由で、冷房かけっぱなしなんです。その費用はわれわれの血税から出ているんですよ」

それを聞いて腹が立った志らくは叫んだ。
「じゃあ、沖縄の電力会社に頼んで、電気をきっちまえ!」

私は松元ヒロとの2人会で志らくに会ったが、こんな志らくに糸数がすすめた。

「志らくさん、あなたのような勇気ある方が政治家になるべきです。次の選挙で立候補して」

それを志らくは、「いやいや、私が政治家になったらフランスの大統領と区別がつかなくなるからやめときます」とわけのわからない逃げ口上でかわした。

民主党のある議員がこんなことを言ったという。「小泉(純一郎)さんは芸能を己のパフォーマンスに利用する人、麻生(太郎)さんは落語家になったほうがいいような人」。

この記事の著者・佐高信さんのメルマガ

image by: Shutterstock.com

なぜ、日本初の地下鉄を作った実業家はことごとく反対されたのか?

今では人々にとって欠かせないものとなった地下鉄。その誕生について、意外と知らない人も多いのではないでしょうか。今回のメルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、東京の地下鉄の生みの親である早川徳次氏の志について語っています。

日本初の地下鉄誕生秘話

大都市東京の地下に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下鉄。

計13路線304キロ、一日に約690万人が利用するこの鉄道網を現実のものとしたのが、ある青年実業家の志だったことは、あまり知られていません。

地下鉄の父・早川徳次(のりつぐ)。日本、また東洋初となった大事業を成し遂げたその「挑戦と創造」の歩みとは。

『致知』2022年5月号にご登場いただいた、地下鉄博物館学芸課長の玉川信子さんのお話をご紹介します。

……………………………………………
必要は不可能も可能に変えていく
……………………………………………

明治時代後期の東京の状況に目を移すと、交通手段は路面電車が中心でした。

ただ、増え続ける人口に対して路面電車は既に限界に達しており、「満員電車」が東京の名物として流行歌にもなっていました。

そんな中、徳次は鉄道院の嘱託として欧州視察へ出発。

最初に訪れたロンドンで、市街地を縦横に結ぶ世界最古の地下鉄を見て感動します。

日本の近代化のためにも地下鉄が絶対に必要だと痛感した徳次は、さらにイギリス各地、パリやニューヨークで研究を続け、一九一六(大正五)年に帰国します。三十五歳の時でした。

ところが志を熱く語る徳次への、学者や技術者の視線は冷ややかなもので、ペテン師と揶揄する人もいました。

「東京は昔海だったのだから、地盤が軟弱で無理だろう」と。

それでも徳次は、果たして本当に無理なのか、と考えます。

「必要の事は、何時か必ず実現する。必要は不可能のことすら可能に変へて行く」

これが徳次の信念でした。

「よかれと思って」が児童を傷つける。学校が、悪魔ならぬ“善魔”になる瞬間

子供の生い立ちは人ぞれぞれ。それを学校の授業で晒しあげてしまうようでは、本来のねらいとはまったくかけ離れてしまいます。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、そういった「よかれと思って」という気持ちから出てくる学校側の「善魔」とも言うべき行動について問題視しています。

悪魔より性質の悪い「善魔」

昨日10月28日、中日新聞の次の見出し記事が気になった。

参考:里子や養子が「生い立ちの授業」で悩まないように 名古屋市が学校に配慮求める文書(中日新聞)

購読している訳ではないので本文は読めていないが、恐らく『不親切教師のススメ』第7章「子どもの家庭を覗かない」で書いたことと類似の内容ではないかと推察される。あらゆる家庭の事情に配慮し、傷つく子どもがいる可能性のある活動は実施を考慮すべし、ということである。

要は、あらゆる一斉学習で最も気を付けるべきは、個の事情への配慮だということである。本来、生い立ちを調べることで、自己肯定感やあらゆる感謝の気持ちを育む学習である。このねらい自体はいいのだが、場合によってはこの方法が不適切になり得るのが難しいところである。

教育する側は、当たり前だがあらゆる教育活動を「善行」を前提として熱心に行っている。しかし、その「善行」こそが強い苦しみを生むことが多々ある。相手のしていることが明らかな「悪行」であれば、悪いことなので抵抗も糾弾もできる。しかし「善行」に対しては、抵抗手段を用いることができない。それが「善意」によるものだからである。(「あなたのため」が最凶の呪いの言葉なのも、これと同様である。)

『不親切教師のススメ』でも紹介したが、これを「悪魔」をもじっての「善魔」という。ちなみに「善魔」とは(知り得る限り恐らくだが)作家の遠藤周作氏の造語である。
(『生き上手 死に上手』 遠藤周作著 文春文庫 p.21 )

「よかれと思って」が善魔の行動の特徴である。相手の事情も知らずに、要らぬことをしてしまう。やられた方も、相手が善意とわかっているからこそ、やるせない気持ちになる。人間関係のこじれる、最も難しい部分でもある。(ドラマや小説でもよく描写される光景である。)

アメリカも激しく動揺。イスラエル「5倍返し」報復で地獄絵図のガザ

ハマスのイスラエル急襲が直接の引き金となり、軍事的緊張が極限まで高まっている中東。「第5次中東戦争」の勃発を危惧する声も聞かれる状況となっています。最悪の事態を避けるため、当事国や国際社会はどう動くべきなのでしょうか。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』ではジャーナリストの高野さんが、さまざまな情報や各国の状況を勘案しつつ解決の道筋を考察。日本については「この局面の打開に貢献できる余地は皆無」のと厳しい見解を示しています。

※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2023年10月30日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

何よりもまず休戦。イスラエル・ハマス戦争を第5時中東戦争にさせないために

10月7日のハマスによる奇襲攻撃で少なくとも1,400人が犠牲となり、220人が人質として拉致されたことに対し、イスラエル側は「イスラエル版の9・11」、「ホロコースト以来最大のユダヤ人虐殺」であり、「ハマスはナチスだ」と最大級の非難を投げつけ、直ちにガザ地区への総攻撃の準備に入った。

ナチス・ドイツが1933年の政権掌握から44年の降伏までの12年間に殺害したユダヤ人は、推定で500万~600万人とされており、それと同等のことが起きたかに言うのはいささか度が過ぎている。まあ、1945年の大戦終了後、あるいは48年のイスラエル建国後、これほど多くの民間人が一度に殺害されたことはなかったというのは本当なのだろうが、だからと言って、10月8日以降28日までに1日平均数十回の空爆を中心とする報復攻撃でガザ地区の子ども約3,000人を含む7,703人が犠牲になった(ハマス保健省発表)「5倍返し」のような過剰な作戦が正当化される訳ではないだろう。

これから戦車隊を先頭にした地上侵攻が本格的に始まってしまえば、パレスチナ側の犠牲者は数倍では済まず数十倍にも達し、ヨルダン川西岸のPLOやレバノン南部のヒズボラまで入り乱れる「第5次中東戦争」に発展する危険さえある。

この記事の著者・高野孟さんのメルマガ

急死の李克強元首相は本当に「日本への理解があるリーダー」だったのか?

10月27日、滞在先の上海で心臓発作により急死したとされる李克強元首相。李氏と言えば日本では「習近平国家主席のライバル」と位置づけられてきましたが、事実、彼は権力の掌握を目論んでいたのでしょうか。今回のメルマガ『富坂聰の「目からうろこの中国解説」』では、著者で多くの中国関連書籍を執筆している拓殖大学教授の富坂聰さんが、李克強氏の人となりを詳しく紹介。その上で、李氏を「与えられた職務を実直にこなす実務家」と評価しています。

「習近平のライバル」は本当か。李克強元総理とはどんな人物だったか

日本が中国をどう考えてきたか。

このテーマは日本の中国研究者にとって常に大きな関心の的であった。

一衣帯水と表現される両国の地理的な近さや漢字や箸を使うという文化や習慣を共有しながら、一方ではいかにも埋めがたい深い溝が存在してきたからだ。

単に政治体制の違いというだけでは納得しがたい深い「溝」だ。

李克強元総理の突然の訃報に接し、やはり真っ先に考えたのが、この日中間に横たわる「溝」についてだった。

もし同じタイミングで朱鎔基元国務院総理が世を去ったとしても、同じような発想をしたのではないだろうか。

李克強と朱鎔基に共通するのは、「日本への理解があるリーダー」と多くの日本人(とくに中国の関わりのある日本人)が考えてきたことだ。反日教育を推進した(これも誤解だが)江沢民に対する朱鎔基。強権政治の習近平に対する李克強という単純な比較がメディアでも定着している。李と朱は、「経済の分かるリーダー」として日本人ビジネスマンとの親和性を持つ。

こうした対比は、日本人の判官贔屓とも相まってか、「政治を誤る王」と「それを諫める宰相」という構図にも落とし込まれるのが一般的だ。

日本の紙誌で原稿を書くのであればそれも正解だが、現実の中国政治の実態を正確に表現しているのか、と問われれば首をかしげざるを得ない。

90年代、北京で数人の官僚たちと話していたとき、筆者が「朱鎔基は日本に理解がある」と発言した瞬間、彼らが一斉に凍り付いたことがあった。そして互いに不思議そうに顔を見合わせた後、一人の官僚が、「朱鎔基は中国人だ。しかも中国共産党(共産党)の党員で、組織の大幹部だ」と、少し憐れむようにつぶやいたことが忘れられない。

朱鎔基にせよ李克強にせよ、西側のメディアは常にその時代の体制に「抗う人」として彼らを位置付け、期待してきた。習近平国家主席の独裁的なやり方に疑問を持って対峙する人物として。

面白いのは、外国で暮らす多くの中国人も、これと同じ感覚を持つことだ。

中国で官僚や政治家への取材が困難になるなか、外国にいる中国人はより手軽な取材対象となり、この傾向は加速し、日本の報道の実態との乖離は顕著になっている。

また中国国内では、不動産不況やコロナ禍後の経済の回復が思わしくないなどの問題があり、その不満のはけ口として李克強元総理の急死を利用しようとする動きもあるが、これも発想は同じだ。

主にネット上での話だが、かつての胡耀邦元総書記の逝去と重ね、亡くなったリーダーへの思慕が天安門事件に結び付いたような、大きなムーブメントを李の死にも期待するような声が散見された。

だが、現状を見る限りそうした試みは不発に終わったようだ。

その理由は複数あるが、第一に習近平と李の確執がどのようなものだったのか、いま一つはっきりしない点が挙げられる。

李が晩年不遇であったのは間違いない。出身母体の共産主義青年団は習政権下で冷や飯を食わされ、凋落した。また総理がリーダーシップを発揮すべき経済分野で李の出番も少なくなった。経済政策をめぐる意見の対立も度々漏れ伝わってきた。

この記事の著者・富坂聰さんのメルマガ

「クマを殺すな!」18道府県173人がクマ被害で死者続出も、駆除の自治体にクレーム殺到。デヴィ夫人は知ったかぶりでSNSコメント欄が大炎上

今年の秋は「クマ出没注意」どころではないようだ。NHKの調べによると今年のクマによる被害者は、10月29日時点で18道府県の173人におよぶという。しかも10月に入ってからの被害だけで少なくとも64人に上り、過去最多だった2006年10月の49人を大きく上回っている。


ついには東京にも姿を表したクマ

さらに10月23日には東京都町田市の施設でもクマが目撃されるなど、都心と言えども「対岸の火事」とは言えない状況となっている。いったい日本の山で今、何が起きているのだろうか。

クマによる人身被害件数が今年もっとも多いのは秋田県で59人、次いで岩手県が41人、福島県13人、青森県11人。北秋田市では19日、住宅街で中高生を含む男女6人がクマに襲われ怪我を負っている。

クマの駆除に殺到するクレーム

このような事態を受け秋田県では、地元猟友会などの協力を得、当然ながら法に則りクマを駆除。しかしこの「やむを得ない選択」に対して、電話やメールでのクレームが相次いでいるという。X(旧Twitter)でも「やり方が酷すぎるんだよ」「駆除以外に手はないのか」「クマ可哀想すぎる」といった書き込みが多数見受けられる。

デヴィ夫人の投稿にコメント欄が大炎上

このような中、タレントのデヴィ夫人がインスタグラムに投稿した内容が物議を醸す。


アメリカでは、クマを 麻酔銃で捕獲し、沢山の果物などの食物をつけて 山に帰してあげます。
日本では 銃殺してしまう。可哀想です。
日本も アメリカに習うべきでは ないでしょうか。

コメント欄には「色々と勉強不足のコメント」「机上の空論」「これは賛同できない」といった批判的な書き込みがあふれ、大炎上となってしまった。

難しい判断を迫られている地方自治体

ともあれ、クマによる被害の拡大を手をこまねいて見ているわけにもいかず、かと言って現場の実情を知らない都会に住む動物愛護が過ぎる人々のクレームを放置することもできるものではない。秋田県を始め、多くの被害者を出していいる自治体が、クマの駆除に対して難しい判断を迫られているのが現実だ。

宮沢賢治の短編『よだかの星』という作品をご存知だろうか。全ての生き物は、他の生き物を犠牲にしなければ命をつないでいけないという動かせない事実に葛藤する「よだか」の物語だ。

人とクマとの関係は、もちろん「共存」できればそれに越したことはない。しかし現実問題として被害が続出している以上、ここまま放置するわけにはいかないのが現状だろう。もし、あなた自身や大切な家族がクマに命を奪われるような事態になったしても、それでも「クマの駆除に断固反対」と言い切れるだろうか。

影武者どころじゃない。プーチン大統領「10月26日に死亡した」説は本当か?

先日公開した「金正恩と会ったのは“影武者”か?プーチンに囁かれる「年内死亡説」の真偽」で、プーチン大統領の健康不安説を取り上げたばかりの、メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』著者で国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんですが、その続報とも言うべき記事を配信。そこには、プーチン氏の「影武者疑惑」どころか、10月26日にプーチン氏がすでに死亡していたとする情報をあげて、その真偽について検証しています。

【仰天】プーチンは10月26日に死んだ説

10月27日号は『プーチン「心停止説」と「影武者説」』でした。

今度は、【 プーチンは死んだ説 】がでてきました。

この説を流しているのは、「心停止説」と同じ、「SVR将軍」です。

SVRというのはロシアの「対外情報庁」のこと。

元SVRの幹部ビクトル・ミハイロビッチ(仮名)が、「クレムリンのインサイダー情報を暴露する」というポジションで情報を発信しています。

今回の元の出所は↓になります。

内容を要約しようかと思ったのですが。

イギリス在住の国際ジャーナリスト木村正人先生が詳細な訳を出してくださっていました。

● 匿名SNS発の「プーチン死亡説」に世界の大衆メディアが飛びつく理由

一部を転載させていただきます。

〈暗号化メッセージアプリ「テレグラム」の匿名チャンネル「対外情報局(SVR)将軍」は26日

「注意! 今この瞬間、ロシアで“クーデター”が進行中だ。ウラジーミル・プーチン露大統領は今晩、ロシア北西部の保養地バルダイの大統領邸で死亡した。
モスクワ時間午後8時42分、医師は蘇生を中止し、死亡を告げた」
と速報した。

「SVR将軍」によると、医師団はプーチン大統領の遺体が横たわる部屋でロシア連邦警護庁のドミトリー・コチュネフ長官の個人的な命令で大統領警護官に拘束された。

コチュネフはシロビキ(治安・国防関係の国家主義者)の実力者、ロシア連邦安全保障会議のニコライ・パトルシェフ書記と連絡を取り、指示を受けている。
大統領府の警備は強化されている。

「積極的な交渉が行われている。プーチンの死後、ドッペルゲンガー(影武者)を大統領にすり替える試みはクーデターだ」(SVR将軍)。

翌27日には「昨日午後、プーチンの健康状態が急激に悪化し始めた。午後8時ごろ、当直医が医師団を追加招集し、到着15分後にプーチンの蘇生処置を開始したが、その時点で危篤状態に陥っていた」と詳報した。

午後8時42分、医師は蘇生を中止し、プーチンの死亡を告げた。

その後、警護官に事態を報告した。

コチュネフの個人的な命令で、プーチンが死亡した集中治療室に改造された一室は封鎖された。

医師団はプーチンの遺体と一緒に閉じ込められたままだった。

警護当局は医師団に落ち着いて静かに待つように命じた──「SVR将軍」はそう報告している。

「コチュネフはパトルシェフの指示を実行している。コチュネフの指示により大統領の影武者の警備も強化された。

現在、医師団の運命も含め、問題は解決されつつある。

現体制を維持し、影武者を大統領としてプーチンにすり替えるため、パトルシェフの指導の下、プーチンの側近による集団指導体制を構築する交渉はほぼ終了した」(SVR将軍)

「プーチンが生きていた時は何の問題もなく影武者を使うことができ、極端な場合、本物を登場させることができた。しかしプーチンの死後、影武者を大統領として詐称しようとする試みは国家革命だ! 
プーチンの遺体は大統領邸の以前は冷凍食品が保管されていた冷凍庫に安置された。
医師団はいくつかの部屋に分けられ、拘束され続けている」(同)〉

とのことです。

最重要ポイントを挙げると

  • 10月26日、プーチンは死亡した。
  • プーチンの死後、パトルシェフ安全保障会議書記が実権を握った。
  • パトルシェフは、プーチンの死を隠し、影武者にプーチンを演じつづけさせるよう画策している。

実際は、どうなのでしょうか?

この説のある面「都合のいい」ところ。

私たちは、プーチンと影武者を見分けることができないことです。

先日、『ニューズウィーク』や「TBS NEWS DIG』も影武者について報じているという事実を書きました。

参照↓

“あの時”のプーチン氏はニセモノだった⁈影武者の真偽AIが分析 【報道1930】

本物のプーチンなら「あり得ない」仕草……ビデオに映った不可解な行動に、「影武者説」が再燃

特にTBSは、AIによる鑑定について、

〈結果は、2023年4月のヘルソン訪問時のプーチン氏…“本人との一致度”40%。

2022年12月のクリミア橋視察…53%。

この2つが特に低かった。

因みに偽者であることが分かっている“プーチン氏のそっくりさん”を調べたところ一致度35%だった。

つまり、ヘルソンに現れたプーチン氏は“そっくりさんレベル”だったということになる。〉

とかなり興味深い内容を報じていました。

今回の話は、本当なのでしょうか?

ウソなのでしょうか?

本当だとしたら、影武者プーチンが、プーチンを演じつづける。

でも、私たちは、影武者プーチンを「偽物」と認識できない。

ウソだとしたら?

本物プーチンが、今までどおり執務を続ける。

しかし、SVR将軍は、「あれは影武者だ」と主張しつづけることができる。

ということで、私たちにとっては、「何の変化も起こらない」ということになります。

「トンデモ系」のような話ですが。

「SVR将軍」は2021年秋時点で、「来年の2月プーチンはウクライナに侵攻する」と予測し、見事に当てていました。

世界中のメディアが、彼の言葉を引用するのは、それなりの実績があるからです。

非常に興味深い話ということで、ご紹介させていただきました。

今回は、木村正人先生の記事から転載させていただきました。

全文も是非ご一読ください。

● 匿名SNS発の「プーチン死亡説」に世界の大衆メディアが飛びつく理由

 

(無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』2023年10月29日号より一部抜粋)

image by:Free Wind 2014/Shutterstock.com

【CITY POP対談】世界的大ヒット「真夜中のドア」作曲家・林哲司 × 世界的シティ・ポップブームの先駆者・DJヴァン・ポーガム

世界92か国のApple MusicのJ-Popランキング入りを果たしただけでなく、Spotifyのグローバルバイラルチャートでは18日連続1位を獲得した松原みき真夜中のドア~stay with me』(1979)など70〜80年代にかけて「シティ・ポップ」の名曲を数多く生み出し、映画やアニメ、舞台など多岐にわたって活躍する作曲家林哲司(はやし・てつじ)。そんな林や日本のシティ・ポップに魅せられ、自身のYouTubeチャンネルで2016年からシティ・ポップを世界中の音楽ファンにいち早く広めた「ブームの先駆者」である米国シカゴ在住のDJ ヴァン・ポーガム。これらシティ・ポップと呼ばれる楽曲を「作った側」と「広めた側」が初めて顔を合わせ、今も続く世界的シティ・ポップ大ブームの過去・現在、そして未来を語り尽くしました。(通訳協力:細川忠道)

ブームの先駆者 DJヴァン・ポーガムが林哲司に聞く「なぜ今、海外でシティ・ポップが流行っていると思いますか?」

──本日は、お忙しい中お時間をいただきありがとうございます。70〜80年代の日本で作られた「海外のカルチャーに憧れを抱き、都会やリゾートでのライフスタイルを求める若者文化を背景にして生まれた和製ポップス」=「シティ・ポップ」という音楽ジャンルを代表する1曲『真夜中のドア~stay with me』をはじめ多くの名曲を作曲された林哲司さんと、2010年代後半から海外を中心に起きたシティ・ポップブームの先駆者のひとりである米国シカゴ在住のDJヴァン・ポーガムさんという「ブームの当事者同士が顔合わせして、そのブームについて語ることができたらどんなに素敵なことだろうと思いまして、この対談をセッティングさせていただきました。今までありそうで無かった「夢のシティ・ポップ対談」を実現することができて、とても嬉しく思っております。はじめに、簡単ではございますが、お二人のご紹介をさせていただきます。

林哲司さんは、1949年8月20日生まれ静岡県出身。72年のチリ音楽祭での入選をきっかけに、73年にシンガー・ソングライターとしてデビューされました。以後、作曲家として活動し、83年から5年連続「日本作曲大賞優秀作曲賞」を受賞。また、映画やTVの音楽監督をはじめ幅広く活躍されています。代表作は、松原みき「真夜中のドア~stay with me」、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」、竹内まりや「セプテンバー」、中森明菜「北ウイング」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER」等、その作品数は2000曲以上にのぼります。また、作曲家としてはもちろん、アレンジャー(編曲家)としても数多くの作品を手がけられています。

来る11月5日には、作曲活動50周年を記念した「ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート」(於:東京国際フォーラム)が開催されるなど、現在も精力的に活動されています。

ヴァン・ポーガム(Van Paugam)さんは、はアメリカ・イリノイ州シカゴでDJとして活躍する音楽家です。2016年、自身のYouTubeチャンネルにてシティ・ポップのミックスをいち早くアップし、世界中の音楽ファンに注目されました。この当時すでに松原みき「真夜中のドア」や竹内まりや「プラスティック・ラヴ」など、世界的ブームのきっかけになった曲をいくつも紹介しております。登録者数が約10万人にまで達した19年1月には地元シカゴで歌手・杏里のライヴを企画。しかし直後にチャンネルの削除要請によってアカウントが消滅し、ブームの先駆者であったにも関わらず、その名前は日本でほとんど知られていません。しかし、16年の時点でこれだけ多くのシティ・ポップを紹介していたDJは、ヴァンさんをおいて他にはいませんでした。16年にYouTube上でアップしていた楽曲は現在、SoundCloud上で聴くことができますので、ぜひヴァンさんによるシティ・ポップミックスをお聴きいただきたいと思います。

最近では、2018年に亡くなった歌手・西城秀樹の楽曲を再評価したことで再び注目されており、その選曲眼と楽曲ミックスのアレンジ力は世界中の音楽ファンからも高い支持を得ています。

それでは、ご自由にお二人でお話を進めていただければと思います。本日は、ヴァンさんの友人で日本在住のミュージシャン・細川忠道さんに同時通訳をお願いしております。まずは、ヴァンさんから林さんへ、いくつか質問をご用意したそうですね。

ヴァン・ポーガム(以下、ヴァン):(ここだけ日本語で)林さん、はじめまして。宜しくお願いします。

林哲司(以下、林):おお、Nice to meet you(笑)、こちらこそ宜しくお願いいたします。ヴァンさんからの質問は事前にいただきまして、ひと通り目を通しました。

ヴァン:ありがとうございます、まずは私から質問させてください。林さんの長いキャリアの中で、どんな音楽から影響を受けてきたのか、その歴史を教えていただけますか?

:私にはとても歳が離れた2人の兄がいるんですが、彼らが聴いていたアメリカの音楽から影響を受けたんです。たとえばポール・アンカ、ニール・セダカ、エルビス・プレスリーなど、当時のアメリカでチャートを賑わせていたポップミュージックですね。

ヴァン:それはアナログレコードでですか? それともラジオですか?

:主にラジオで聴いていました。でも、ときどき兄たちが新しいポップミュージックのレコードを買っていたので、それも自然と聴いていましたね。片耳でアメリカのポップミュージックを聴いていて、もう片方の耳で日本の歌謡曲を聴いていたんです。

ヴァン:やはり幼少期から聴いていたことで、林さんの西洋音楽の要素と日本の要素がミックスされたサウンドができたんでしょうね。子供の頃に聴いていた日本の歌謡曲の中で、特にインスピレーションを受けた曲は何ですか?

:特にコレだという曲は無いですね、アメリカの音楽からの方が要素として大きな影響を受けたんだと思います。なぜかというと、当時の日本のトラディショナルな歌謡曲は、とてもシンプルな構成だったんですね。アメリカの音楽の方が、いろいろな音楽の要素がふんだんに取り入れられていて、どの曲からも個性が感じられました。音楽を求める側として、必然的に欧米の音楽に傾倒していったんだと思いますね。

ヴァン:作曲をはじめた初期の頃、どのようなプロセスや考え方を持って作曲にのぞまれていたのでしょうか?

:当時、自分にとって一番お気に入りのアーティストがいたんですね。日本のミュージシャンであり、作曲家、そしてアクターでもある加山雄三さんです。彼は自分で作った音楽を、自分でエレキギターを演奏して、自分で歌っていました。彼のスタイルに憧れて作曲をするようになったんです。もちろんザ・ビートルズにも影響を受けましたが、かれらは外国人であり少し遠い存在ですが、加山雄三さんは同じ日本人なのでとても身近に感じましたね。

ヴァン:今までに加山雄三さんと何かコラボしたことはあったのでしょうか?

:いや、期待はしていましたけど、未だにないですね(笑)。彼は最近になって引退してしまいました、リタイアです。

なぜ「シティ・ポップ」を作曲するようになったのか?

ヴァン:なぜ、林さんは「シティ・ポップ」と呼ばれる音楽を作曲するようになったのでしょうか?

:私が、今あなた方が「シティ・ポップ」と呼んでいる音楽を作っていた40年ほど前は、そのことを意識して作曲していたわけではないんです。ただただナチュラルにアメリカのポップミュージックが好きで、向こうでヒットした曲の要素を自分の中にインプットして、それが自分の中にたくさん堆積して、自分が曲を作るときに少しづつ濾過されて作品に投影されただけなんだと思います。それは80’sの音楽に限らず、もっと子供のときから西洋音楽に対して興味を持っていたことが、アメリカに住んでいる人たちと同じように、自分の中に培ってきたものなんでしょうね。

ヴァン:いろいろなところでよく言われることだと思うのですが、林さんが作曲された40年前に私は生まれていなかったんですけれど、林さんの曲はアメリカ人の私にとっても「自然」に聴こえ、しかも「ノスタルジック」なサウンドだと感じるんです。

:私も過去に「なぜ、自分は日本に住んでいるんだろう?」と思ったことはあります(笑)。

ヴァン:(笑)、林さんが今まで作曲した中で、一番アメリカっぽい、西洋っぽいサウンドだということを意識した曲やプロジェクトはどれですか?

:曲よりもプロジェクトとしての「杉山清貴&オメガトライブ」でしょうね。彼らの曲を作るときは、当時アメリカで流行っていたAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)の影響を受けていましたから、それが顕著に反映されている楽曲群だと思います。彼らが一番、自分の音楽を表現していたアーティストでした。もし当時、私自身がパフォーマーだったら、彼らのようなスタイルで活動していたと思いますね。

世界が驚愕した「林哲司サウンド」の秘密とは?

ヴァン:林さんが作曲した曲は、とてもシンセサイザーの音が目立つ楽曲が多いと感じるのですが、特に「このシンセが好きだ」「このシンセをよく使っていた」というのがあれば教えていただけますか?

:これは、他のアレンジャーやコンポーザー、サウンドクリエイターと同じだと思いますけど、80年代だったら「プロフェット5」「オーバーハイム」ですね。ただ、ここがすごく大事なポイントなんですが、音色を選ぶセンスはサウンドクリエイターによってそれぞれ違いますけど、私の場合は「いかにもシンセサイザー」というハードな音は選ばなかったんです。どちらかというと、とてもソフィスティケイトされた音色をピックアップしています。

もし、興味があるのであれば、ぜひ私の曲を聴いて確認して欲しいのですが、例えばシンセに「パッド」という音色がありますけど、その「パッド」の音ひとつ取ってみても、シンセを象徴する音よりは、トロンボーンやホルンの丸い音色を選んでいると思います。そこが、カルヴィン・ハリス(スコットランド出身の作曲家・編曲家)とは違うところです(笑)。

ヴァン:私は林さんの音楽の方が好きです(笑)。

:Thank you(笑)。

ヴァン:林さんの好きなキーやコード進行について教えてもらってもいいですか?

:特別に「このキー」というのはないんですが、あまりフラットとシャープが付いていない方がいい。その方が私自身も楽ですからね(笑)。基本的に、作曲するときはギターとピアノを使うことが一番多いんですけど、ピアノであれば「F」「G」「C」、ギターであれば「E」とか、そのへんが一番ポジション的にはやりやすいですね。これは、他のみなさんも同じだと思います。

ヴァン:林さんの楽曲はシンプルに聴こえますが、何か複雑な要素が入っているなと感じます。洋楽と日本の音楽との要素が絶妙なバランスで保たれているんだと思います。それについて意識していることはありますか?

:さかのぼってみると、80年代にはアメリカンミュージックにより近づけるような形で作曲をしていた時期があったんですけど、その手法でそのまま作曲すると、それを聴いた日本人はちっとも同調しなかったんですね。そこで、少し「日本人に理解される範囲」に自分の音楽をシフトしてみました。それが、今あなた方が「良い」と言ってくれているシティ・ポップのスタイルのベーシックなところだと思います。つまり、「アメリカを目指して船で航行していたつもりが、途中でハワイを経由して日本に戻ってきた」という感じかな(笑)。

ヴァン:ハハハ、それはクールですね(笑)、とてもよく理解できました。

サブスク、AI、ストリーミング…昨今の音楽事情について思うこと

ヴァン:ところで現在、ストリーミング・サービスや、サブスクリプション・サービスを通じてすぐに音楽を聴くことができる環境にシフトしたことについてはどう感じていますか?

:これは、とても難しい質問ですね。多くの人々が音楽を楽しむ方法というものはたえず進化していますから、そのこと自体は決して悪いことではないと思います。メディアがレコードからカセットテープ、CD、MDと変わってきたのと同じように、リスナーが音楽を聴く方法が変わってきたことも時代の流れであり、ひとつの文化ですから。

ただし、それとは別のマイナス面があって、音楽産業として一番マズかったのは、サブスクリプションで聴かれる対価として支払われる金額が、とても安い状態のまま放出されてしまったことです。そのことが、アーティストたちにお金を還元できなくなっている大きな理由だと思います。リスナー側も変化していて、私たちのときは一度買ったレコードやCDを何度も何度もくり返し聴くということが習慣づいていましたが、今はBGMのように音楽を聴いているじゃないですか。つまり音楽に対する愛情の深さは、今と昔とでは大きく差が開いてしまったんじゃないかなとは思いますね。

ヴァン:確かにおっしゃる通りだと思います。では、音楽業界に人工知能(AI)が普及し始めていることについてはどう思いますか?

:これは音楽業界だけに限らず、映画の本場ハリウッドで俳優と脚本家がストライキを起こしているのと同じように、音楽にも大きな影響を及ぼすと思いますね。AIが、自分の思っているような音楽を作り出すという便利さと、人が想像力を使って音楽を作る喜びを失って便利さの方を優先するという状況は、あまり良くないんじゃないかなとは思います。

松原みきのデビュー曲「真夜中のドア」誕生秘話

ヴァン:まったくその通りですね。そろそろ私から最後の質問をさせてください。松原みきさんは林さんの作曲した「真夜中のドア」という曲の影響もあって、今や最もよく知られている日本の歌手の一人となりました。海外のファンがとても知りたがっていることだと思うのですが、彼女と一緒に仕事をしたときの記憶や、特にこの曲を作曲するプロセスはどのような感じだったのか教えていただけますか?

:これは1979年の作品ですけど、作曲した当時は彼女に会ったことがありませんでした(笑)。他の作曲家も同じ歌詞で彼女に曲を書いていて、おそらくコンペで選ばれたんだと思います。ただ、私サイドのプロデューサーが僕に求めてきたのが、「アメリカン・ポップミュージック書く感覚で、日本語を意識せずに曲を書いてOKだから」ということだったんです。

ヴァン:曲を書いたあと、松原みきさんと直接お会いしたり関わったりしたことはありますか?

:この曲がヒットしたあと、彼女には何曲も提供しましたし、同じスタジオの中で一緒にアルバムを作るという共同作業も沢山やりました。彼女はデビュー当時まだティーンエイジャーでしたから、とてもキュートで、どちらかというとアイドルソングを歌うようなタイプの女の子でした。でも、その歌声はジャジィーで、「真夜中のドア」は、とても大人っぽい雰囲気に仕上がりました。

ヴァン:現在、世界中でさまざまな紛争や問題が起きている暗い時代にあって、私たちにインスピレーションを与える一言をお願いできますでしょうか。

:みなさん、自分の中にある「創造性」というものを信じて新しいものを創造して欲しいと思いますね。それは、先ほどお話ししたAIの問題にもつながってくると思います。人は、より便利な方、より便利な方と、ものすごいスピードで行ってしまいますけど、人間が作り出す力というものをいつも意識しながら科学や文化を見ていた方が良いと思いますね。