激まずグルメにゲンナリ…ガイドブックには載らないヨルダン裏案内

『ママチャリで日本一周中の悪魔』こと大魔王ポルポルさん。日本一周の旅を終え、イスラエルとパレスチナ自治区の街をブラブラ歩き、一悶着あってヨルダンへ入ったと思ったら、ヨルダンのホテルやグルメの「恐ろしさ」に驚いていたようで。。。

ヨルダンに到着した大魔王が、ホテルとグルメと移動手段を伝授!

ガッハッハッハッハッハ!! 魔界から来た大魔王ポルポルだ。

我輩はいまヨルダンにいるぞ。ヨルダンとは中東の国。隣にはイスラエル、シリア、サウジアラビアと隣接していて、あんまり旅行には適していない国だ。

国民の大多数が中東戦争よりイスラエルに占領されたパレスチナから流れてきた難民とその子孫ばかりである。

ヨルダンはテロとか紛争とか危ないイメージが多いと思うが、あんまり長居はしたくない場所であるな。さて、今回は『魔界流ヨルダンの過ごし方』を説明してやろう。

「過ごし方」といっても、ヨルダンの主な観光地である、ぺトラ遺跡や、ワディラム、死海などに行くわけでもなく、ただただ普通の過ごし方になっておる。

それでは、まずは移動手段から!

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ヨルダンでは、相乗りタクシー、バスを使うことをオススメするのだ!

タクシーだと自殺行為。乗ってもいいけど、ボッタくられてしまう。なので、セルビスという4~5人乗りの相乗りタクシーか、長距離バスでの移動がオススメなのだ。

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どちらもリーズナブルな料金。バスは日本円で300円ほど。相乗りタクシーは80円くらいであった。

次にホテルに行く!

これらの移動手段を使って、まず何をしなくてはいけないのか。

それは、「予約した宿に行く」ことである。我輩は魔王なのに金がない。なので、安めの宿に泊まろうとしていた。

そして、こんな見知らぬ土地で宿泊するなら、アジア人が少しでもいるであろう宿泊場所がいいのだ。我輩はさっそくグーグルで検索。

そして、結果、首都のアンマンにある「Mansour Hotel(マンスールホテル)」というホテルに泊まってやった。ここは通称「コーダホテル」という名前をあだ名がある。

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昔、日本人のコーダさんという人がイラクで亡くなり、その亡くなる前に最後に泊まったホテルがMansour Hotel(マンスールホテル)だそうだ。

なので、コーダホテルとも呼ばれている。我輩はそこに泊まることにした。

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コーダホテルはアンマンの裏路地のところにひっそりと建っていて、結構見つけにくい。玄関近くには怖そうなヨルダン人がウロウロしていて、我輩を見るなりギロっと睨み、覇気をムンムンと放出している。

このホテルには、世界一周をしたり、マニアックな旅行者だったり、日本人を中心とした人が集まることを知ってなのか、

「お金くれ。」

と言ってくる子供がいる。1ディナール(約160円)を催促してくるのだ。しかし、こういうところでヘタにお金をあげても、後々めんどくさくなったりするので、我輩はその言葉を無視してやる。誰が何と言おうと無視し続けてやる。何度も何度も催促してくるが、何度も何度も無視をする。

子ども:「プリーズ・マネー!!!」

我輩:「・・・・」

子ども:「プリーズ・マネー!!!」

我輩:「・・・・」

子ども:「プリーズ・マネー!!!」

我輩:「・・・・」

子ども:「プリーズ・マネー!!!」

我輩:「・・・・」

子ども:「しねーーーーーー!!」

最終的に「ファ●ク」と言われ、我輩のポケットを触ってくる。ポケットに触ってくるというのは、スリを行おうとしているので、我輩はその手を払いのける。

すると、またまた「フ●ック(しねーーーーー!!)」とか「ゴートゥーヘル!(地獄に落ちろ!)」と、魔族なのにそんなことを言われてからでないと、このホテルには入れないのだ。

というトラップを潜り抜けて着いたのがこの部屋。

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全体的に薄暗くて寒い。寝心地も悪い。部屋に暖房がないので、ひたすら我輩の体の新陳代謝を良くして体を温めるしかない部屋だ。

ホテルには、すこしはアジア人がいるだろうと期待したが、宿泊しているのは全員中東人だった。最悪だ。そんなことを気にしながらも小腹が空いたので街に出てみた。

「レストラン」の文字が読めない。どれがレストランなのか分からないのだ。

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とにかく全部がアラビア語だ。

意味の分からない使い道のないものばかりが売っていて、やたらと服屋さんがいっぱいある。しかし、レストランがない。

せっかくヨルダン飯を食べてやろうと思ったのに、どこにレストランがあるのかすらわからないのだ。

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ヨルダン人:「あ・・あ・・あ・・あ・・あいつ日本人じゃないのか!?!?!?」

という目線を送られる。しかし、その目線を全て無視しながら我輩はレストランを探した。

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とにかく、どこにレストランがあるのか分からないので仕方なく、ヨルダン人がこぞって食べていた、お好み焼きの様なピザの様なヨルダングルメを食べてやった。

これは、町の屋台の様なお店で売っていた料理だ。調べてみると、KUNAFA(カナーフェ)というスイーツだそうですが、魔界にはないマズさだった。

トロトロに溶けたチーズの上にモジャモジャの砂糖が乗っている。が!甘すぎて。甘すぎて…。チーズケーキとは違って、シロップのようなクドイ甘さだ。そして焼いているのでほんのり温かい。まとめるとグチョグチョした砂糖の塊みたいな味だった。

あまりのまずさにヨルダングルメに期待が持てなくなった。

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なので、ホテルでインスタントラーメンを食べてやった。

そして、ホテルに戻るときにも玄関前の子供に「お金をくれ」と言われなければいけません。

その子供を無視して、「フ●ック」と言われてからラーメンを食べました。

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そして、次の日。ヨルダンの空港「クイーンアリア国際空港」へ行ってやった。

ちなみに、ヨルダンのクイーンアリア国際空港では、宣伝目的のためか1GBのSIMが無料でもらえるぞ。これはzainというSIM会社にSIMをくれ、というと無料でもらえるというもの。

空港での待ち時間ぐらいなら1GBで十分なので、ぜひもらってみるといい。

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SIMフリー端末を持っている人は、これをもらってネットに繋げるのだな。それから我輩はタイへ飛んだとさ。

(つづく)

 

※大魔王ポルポルさんへの激励のメッセージはコチラまで!

大魔王ポルポル@ホームレス魔王(Twitter)

大魔王ポルポル(755)

 

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誤解された「尊皇攘夷」。日本を救った吉田松陰が遺したもの

志士を弾圧する老中・間部詮勝の暗殺を計画したことで、わずか数え30歳で死刑となった吉田松陰。しかし、その遺志は松下村塾の門下生に受け継がれ、彼らは日本を近代国家たらしめました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、死を前にした吉田松陰が残した思いを振り返りながら、「尊皇攘夷」の意味について今一度考えます。

吉田松陰の「留魂」

安政6(1859)年、志士を弾圧していた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃を計画した事で、吉田松陰は10月27日に死罪を申し渡された。その時に立ち会った長州藩士・小幡高政は次のような談話を残している。

すぐに死罪を申し渡す文書の読み聞かせがあり、そのあと役人が松陰に、「立ちませい!」と告げます。すると、松陰は立ち上がり、私の方を向いて、ほほ笑みながら一礼し、ふたたび潜戸から出て行ったのです。

 

すると……、その直後、朗々と漢詩を吟ずる声が聞こえました。それは、「吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠悠たり天地の事。鑑照は明神にあり」という漢詩です。

 

その時、まだ幕府の役人たちは、席に座っていましたが、厳粛な顔つきで襟を正して聞いていました。私は、まるで胸をえぐられるような思いでした。護送の役人たちも、松陰が吟ずるのを止めることも忘れて、それに聞き入っていました。

 

しかし、漢詩の吟詠が終わると、役人たちは、われに返り、あわてて松陰を駕籠に入らせ、急いで伝馬町の獄に向かったのです。

その後、処刑場でのふるまいに関しても、1人の幕府の役人は「みな感動して泣いていました」という談話を残している。こうして吉田松陰は、数え年30歳で、生涯を閉じた。

「私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます」

この前日26日の夕刻に書き終えたのが、自分の門人たちにあてた遺言書とも言うべき『留魂録(りゅうこんろく)』だった。

そこでは、幕府の役人の取り調べの状況を綴りながら、「私は昨年(安政5年)から、心のありようが、さまざまに変化してきました」と、心の揺れ動く様を正直に吐露している。そして、その後、死を前にした心境を次のように語った。

今、私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます。それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

 

…稲は、春に種をまき、夏に稲を植え、秋に刈り取り、冬には収穫を蓄えます。…

 

私は今、30歳です。何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに「惜しい」ことでしょう。

 

しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの「収穫の時」を迎えたのではないか、と思っています。どうして、その「収穫の時」を、悲しむ必要があるでしょう。

切実な問題。定年後も働いたら年金はどれだけ減らされてしまうか

今の時代、定年後も仕事をもって生き生きと働き続ける人は少なくありません。しかし、一般的に「働くと年金が減らされる」とも言われていますよね。それ、本当なのでしょうか。無料メルマガ『年金アドバイザーが教える!楽しく学ぶ公的年金講座』で紹介されている、「定年後に再雇用されたケース」を例に見ながら、しっかりと学んでいきましょう。

定年後の再雇用後の無年金期間と、年金支給開始後はどのような年金の支払いになるのか?

これから定年を迎えて、その後の年金に不安をお持ちの方も多いですが、定年後も継続雇用や再雇用で働く人が多い時代でもあります。

ちなみに継続雇用はそのまま雇用契約を解除せずに以前の待遇で働き続ける事。

再雇用は一旦雇用契約を終了させて、新たな雇用で雇用契約を結ぶ。大抵は再雇用を採用している企業が多いですね。新たな雇用で給与見直しができるから。

というわけで再雇用だと賃金も見直しされて普通は大きく下がるんで、そこから年金との関係を書きたいと思います。

1.昭和32年4月25日生まれの男性(来月60歳)。この人の老齢厚生年金支給開始年齢は63歳。

厚生年金支給開始年齢(日本年金機構)

60歳で再雇用(厚生年金にはそのまま加入)で65歳到達日(4月24日)をもって退職予定。なぜ、4月25日じゃなくて、4月24日かというと、新たに歳を取るのは誕生日ではなくその前日だから。

誕生日は誕生日だけど歳を取るのはその前日!(参考記事)

60歳時点の賃金は40万円だったが、再雇用により24万円。賞与は7月と12月に20万円ずつ(退職まで変わらないものとします)。

以前の賃金割合と比べて60%(24万円÷40万円=0.6)になりました。

60歳時点の賃金(60歳前6ヶ月以内に支払われた賃金の平均)よりその後の賃金が75%未満に下がると、雇用保険から高年齢雇用継続給付金という下がった賃金の最大15%(賃金割合が61%以下の時)が60歳月から65歳月分まで最大5年間支給される場合があります。一般的に会社の総務経理あたりがハローワークに手続きしてるから、60歳間近になったら話してみてください。

東日本大震災から丸6年。宮城県知事を支えた「ある人の教え」

多くの人の運命を一瞬にして変えた「東日本大震災」から6年。無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、極限の状況に置かれながらも、県民の安全を一番に考え冷静に陣頭指揮を取り続けた村井嘉浩宮城県知事の「気構え」と、その冷静さを保つ大きな助けとなったある人物の想像を絶する体験談が紹介されています。

大震災に立ち向かったトップの気構え

東日本大震災から6年。今回はこの大試練に県政の長として立ち向かった村井宮城県知事の体験談を紹介します。いざという時の人間の気構えを教えられるお話です。

土田國保先生の教え

私自身は今回の震災に際して心に決めていたことがあります。こうした非常時には、大変ストレスがたまるものですけれども、私は県のトップとして、自分のマイナスの感情を絶対に外に出さないようにしようと決めておりました。

辛くて涙が出そうになる場面が何度もありましたけれども、私が高ぶった感情をそのまま外に出してしまうと、組織が混乱してしまいます。

私が防衛大学校にいた時の校長先生が土田國保先生という元警視総監の方でした。土田先生は警視庁の警務部長をされていた時、贈り物を装って自宅に送られてきた爆発物によって奥様が亡くなり息子さんも大怪我をされたことがあるんです。

土田先生が朝礼で部下からその報告を受けた時のお話をなさったことがあるのですが、私はそのお話がとても印象に残っているのです。

そして、みんな消えた。大都市ニューヨークから人間が消滅した日

フランス人写真家のGenaro Bardyさんがはじめた写真プロジェクト「Desert in the City」が話題です。これは、世界の大都市を舞台に、その都市の人や車など、誰もいない瞬間を撮影するというプロジェクトです。「誰もいないニューヨーク」が映し出されています。

人も車も消えた。誰もいないニューヨーク

Genaroさんはこれまで2014年クリスマスのパリ、2015年クリスマスのロンドンなど、街から人が少なくなるホリデー期間の大都市で撮影をおこなってきました。

その後、クラウドファンディング「Kickstarter」を通じて、資金を集めながら「Desert in the City」プロジェクトのスタート。2016年の感謝祭の時期にニューヨーク、同年クリスマスの時期のローマといった2大都市で撮影をおこない、「誰いない大都市の写真撮影に成功しています。

中でも、注目すべきはプロジェクト第3弾のニューヨーク人口約850万人を抱えるアメリカ最大の都市ニューヨークですが、彼が撮った写真を見ると、「これが本当にあのニューヨークなの?」と疑ってしまうほど、人も車も誰もいない静寂に包まれた街に変身しています。

 
 
  
 

どうですか? ニューヨークとは思えないですよね?

このプロジェクトのきっかけは意外にも”ハリケーン”から。
「以前から、美しい都市のポートレートの写真シリーズを作り出す方法を探していました。そんなとき、2011年にあったハリケーン・アイリーンが起きるちょうど前に、ニューヨークの写真撮影をしたのですが、その時に道は誰もいなくて、”空のマンハッタン“という不思議な光景をみる機会がありました」とGanaroさん。

「ネットにその写真を投稿したら、反応がすごくて、国内のメディアなどに取り上げられたんです。そこでこのプロジェクトを続けようと、2015年のロンドンでの撮影からスタート。ニューヨークの撮影はかなり大変でした。でも、感謝祭ならきっと人があまりいないだろうと思って、その日に撮影を決めました」。 

大都市ニューヨークを選んだ理由をこう話します。
「ニューヨークはもともとこのアイデアの起源。『眠らない都市』と呼ばれる街に挑戦してみるのは、やりがいがあると思いました。このプロジェクトのために毎晩毎晩歩き回りました。夜の11時から朝の6時半頃まで。とてもチャレンジで、疲れましたが…。そして、1週間歩き回って、どこを撮るかを決めたんです。ほとんどの写真は一晩で撮りました。とても素晴らしい体験でしたね。だって人、車、誰もいない場所で過ごせるなんて、貴重ですからね」。
特に午後11時から午前3時までは車が通らない20〜30秒を探すのは、かなり難しかったとのことですが、午前4時には、街から人が消え、マジカルアワーへ
Genaroさんが最も苦戦したという「タイムズスクエア」や、「アップルストア」、「グランドセントラル」なども撮影されています。
通常のタイムズスクエアと比較してみると、こんなに違う!
image by: Wikipedia
 
08 -Desert in New York - Flatiron - Thanksgiving 2016 © Genaro Bardy
 そんなGenaroさんの次のターゲットを聞いてみました。
次の都市は東京。絶えず人が多い都市ですし、アイコニックシティなので、プロジェクトにはパーフェクト!」と、次回のプロジェクトは24時間眠らない東京で撮影をおこなうよう予定だそうです。
Genaroさんが撮る”静寂の東京”をぜひみてみたいですね!
 

Genaro Bardy 

パリを拠点とした写真家。これまでに旅行会社、ブランド、アーティストなど様々な分野で活躍中。現在、Kickstarterのプロジェクト詳細はこちら
公式サイト / Facebook / Instagram

 
 
 
image by: © Genaro Bardy
取材・文 / MAG2 NEWS編集部
 

元「旅行読売」編集長が断言。「温泉は怒りを鎮める」の科学的根拠

あなたは我慢できないくらい腹が立った時、何をして怒りを鎮めますか? 趣味に没頭する、眠る、お酒を飲む…など、人それぞれの方法があると思いますが、元「旅行読売」編集長の飯塚玲児さんが、断然お勧めするのは「温泉に入ること」。温泉に関する知識を毎回教えてくれるメルマガ『『温泉失格』著者がホンネを明かす~飯塚玲児の“一湯”両断!』の中で、「なぜ、温泉に入ると怒りが収まるのか?」を科学的根拠を交えつつ解説しています。

温泉に浸かって怒り続けられるか?

今週は表題の件に付いて書いてみたい。

僕がもう10年くらい前から人前で話すときに主張してきているのが、「人は温泉に入ると、怒ったままではいられない。 必ず怒りが収まってきて、いつの間にか心が落ち着いている」という事である。

こういう経験をした事がある人は決して少なくないはずである。

この場合は、40度以下のぬる湯のほうがいいようだ。 副交感神経が優位になってリラックスし、筋肉は緩み、よって、しかめ面をしている顔面の緊張もほぐれてくるというわけだ。

顔の筋肉が緩めば自然に笑顔になる。

天井からピチョン、と落ちる雫の音、こぽこぽと足元から湧く湯の音、ドバドバと流れ落ちる源泉湯口の音などを聞いていると、温泉好きならきっと顔もほころんでくる。 温泉好きでなくとも、よほどでない限り、同じような心理変化、体の変化が起きると思う。

温泉に浸かったときに、「ふぅー」と思わず声が漏れるのは、きちんと医学的作用がわかっていて、これは水圧(静水圧)によるものである。

湯に浸かると水圧がかかる事はこれまでにも解説したが、この水圧がけっこうすごい。 肩までとっぷりと湯船に湯かった状態だと、空気中よりもウエストが数センチ縮んでいるほどである。 この水圧が肺にかかって、思わず「ふぅー」と息が抜けるのだ。

この息が抜けるというのは怒りの沈静化にも効果があると思う。

だいたい、怒っている時は、呼吸が荒くて息を吸ってばかりいる事が多い。 面倒なケチを付けられて、反論しようと大きく息を吸うものの、反論の機会を失って、声にならずに、ため息というより、絞り出すように息を吐いているだけ。鼻息は荒くなって、肩は怒り、でも、いいたい事を我慢してぐっと息をのむ。

山口や岡山とはちょっと違う。長野のグルメ「山賊焼」とは?

パリパリの皮に包まれたジューシーな肉、そして食欲をそそるニンニクの香り…想像するだけでお腹が空きそうですね。長野のご当地グルメ「山賊焼(さんぞくやき)」は、今も地元で愛される食べ物のひとつですが、そもそもこの山賊焼という名前、どこから来たものなのでしょうか。今回の無料メルマガ『安曇野(あづみの)通信』では、2つの説を紹介しています。

信州・松本平安曇野の山賊焼

信州中部の松本平(盆地)の塩尻から松本安曇野にかけて、山賊焼と呼ばれる食べものが長く親しまれている。地元に住む大方の人がその名を知っているし、少なくても数回は食べた経験を持つと思われる。また地元食品スーパーの総菜売り場の定番になっているほどだが、盆地の圏外には広まっておらず、今のところあくまで信州の一地方の、郷土の食べものに留まっている。

信州中信地方の山賊焼とは、鶏のもも肉をニンニクなどを効かせた汁に数時間以上漬け込み片栗粉で揚げたものである、焼きと呼ばれるが、正体は揚げである。この、「山賊焼」という呼び方は、信州だけのものでもないらしい。ネットで見ると、山口県や岡山県にもあるようだ(山口・いろり山賊、岡山・山賊のたかまる等)もっとも、こちらは同じ鶏のもも肉を使った料理なのだが、炭火などによるほんとうの焼き」のようである。また、真偽のほど、山賊焼と呼ばれるかはわかないが、千葉県や秋田県のスーパーの総菜売り場で、「揚げ」の山賊焼が販売されているという情報もある。

鶏肉をニンニクなどが入った汁に漬け込み、片栗粉で揚げたと簡単に書いてしまったが、ネットでみたemumuさんの「チュウズディ食堂・信州松本名物『山賊焼き』」、では、実にリアルにおいしそうな食欲をそそる表現になっているので
紹介してみよう。

若鶏もも肉にガーリックいっぱい、しょうがいっぱい、醤油、塩、コショウ、蜂蜜をもみこんで、数時間後…、片栗粉をまぶして、大きいまま揚げます。大きいまま! バリバリの衣、プワっとにおぅスタミナ臭(^^ゞ アツアツのジューシな肉、付け合わせの野菜は乱切りキャベツ、ドレッシングなどといわず、マヨネーズで…。

私も大好物なので、こんな表現に接すると、今夜にもなじみの店に出掛けて、山賊焼でいっぱいやりたくなる。確かにこの山賊焼とキャベツとマヨネーズの取り合わせが旨いのである、絶妙なコンビネーションなのである。ところで、この山賊焼を一口サイズで揚げると、「鶏の竜田揚げ」に、ニンニクを入れる人も、入れない人も、片栗粉でなく小麦粉で揚げると「鶏のから揚げ」などとも載っていたが…。続いてその由来などを探ってみよう。

官報に掲載されていた「行旅死亡人」の詳細に背筋が凍る…

Twitterユーザー・べにすん(@benisboy)さんが官報に掲載されていた、“行旅死亡人”を紹介してくれている。

“行旅死亡人”とは、本人の氏名や本籍地・住所などが判明せず、遺体の引き取り手が存在しない死者のことをいう。

その内容が怖すぎた・・。

 

 

なんと、「瓶に入りホルマリンに漬けられた状態で発見されました。死亡日時は死後30年以上を経過していると推定されます。」とあるではないか!

ホルマリンとは、一体何が起きていたのか!?

これはビビる。

 

■Twitterの反応

 

 

 

 

 

 

 

image by: Shutterstock

※本記事内のツイートにつきましては、Twitterのツイート埋め込み機能を利用して掲載させていただいております。

記事提供:ViRATES

 

【書評】小野田寛郎を英雄に仕立てた黒幕の狙いとは?

終戦を知らされず、戦後30年間フィリピン・ルバング島で戦い続け、1974年に日本に帰還した際に「帝国陸軍最後の軍人」「英雄」と称えられた小野田寛郎氏ですが…。無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』の編集長・柴田忠男さんが紹介しているのは、そんな「英雄誕生」の裏のシナリオ、そして黒幕の存在を指摘する一冊。たしかにそう考えると様々な動きが納得できると柴田さんも記しています。

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小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか
齋藤充功・著 学研パブリッシング

齋藤充功『小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか』を、図書館の棚で発見した。ストレートなタイトルには惹かれるが、あの「ムー」の学研グループである。変な予感も(笑)。なにしろ筆者は、小野田さんに「ルバング島のことで今まで、誰にも話していないことがあるんだ……」と言われたそうだが、取材は一度も成功していないのである。そこで周辺取材と、二次資料(怪しげなものもある)を用いて理論(想像)を展開している。前半でもういいやと思ったが。後半のフィリピンの金塊、GOLDWARRIORS、マル福金貨といった金貨のラビリンスは迷走か瞑想か妄想か

戦後約30年もの間、ルバング島のジャングルに潜み「残留諜者」として最後は三人の部下とも死別(一人は投降)しながらも、救出されるまでの一年余をたったひとりで闘い「命令を守り抜いた」小野田は、「帝国陸軍最後の軍人」であり「現代の英雄」と称えられた。1954年以降、捜索隊は三度もルバング島に訪れているが、小野田の発見には至らなかった。ところが、1974年2月20日、当時24歳の自称・冒険家の謎の青年・鈴木紀夫が小野田との接触に成功。3月9日、小野田に任務の「命令解除」を伝達するため救出隊が島を訪れ、日本への帰国が実現する。絵に描いたように完璧な「英雄誕生」の経過であった。

小野田救出劇、その後のフィリピンと日本政府の対応、一連のセレモニーや帰国後の小野田フィーバーには、綿密に練り上げられたシナリオがあったのではないか。鈴木という自称冒険家に密かに接触し、小野田救出のため最大限利用した黒幕が存在していたのではないか。無名の青年を利用することによって、救出劇をよりドラマティックに演出できた。鈴木の行動にまつわる謎の数々は、背後にフィリピン軍の関係者や日本政府関係者、そして黒幕の介在があったとすれば。小野田発見からあとのなにもかも、驚くべき手回しの良さは、水面下で綿密な打ち合わせがあったと考えたほうが、その多くが納得できる。

さすが中国。フライドチキンのパクリ看板がまさかの「おばさん」

毎回興味深い中国事情を紹介してくださる無料メルマガ『上海からお届け! 簡単3分、写真で覚える生活中国語』。その日本人著者・ジンダオさんが、杭州という街で一軒のお店を発見したのですが、うーん、どこかで見たことがあるような…。さすが中国と言わざるを得ないスゴ技です。

カーネル似の中国式フライドチキン店はおば様。飲食【餐饮】

アメリカはオジサン。中国はオバサンです。

上海から2時間、浙江省の杭州という街があります。マルコポーロも訪れ「東洋のベネチア」と東方見聞録で紹介された街。

そんな杭州の郊外に訪問したのですが、昼ごはんが取れる店舗を探していると、こんな店舗を見つけました。

赤い背景に白い文字で「百吉拉bǎi jí là)」と書かれ、パーマのマダムが店舗ロゴになっています。

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店舗で取り扱っている品は、日本式とんこつラーメンの他、ハンバーガーセットご飯物、店舗の売りとなっている、フライドチキンが主な主力ラインナップ。

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この「百吉拉」調べてみると、江蘇省の無錫と呼ばれる街で2003年に創立。正式名称は「无锡市百基拉餐饮管理有限公司」。江蘇省を中心に上海、浙江省、河南、広州で運営しているチェーン店。

会社の理念は「健康と美味しさ」の飲食文化。顧客に安全で手軽な最も美味しいフライドチキンを提供する事、なのだとか。

店舗の作り、看板の赤と白のコントラスト、人物を使ったロゴ、主力のフライドチキン。初めて見た気がしないこの感覚、一体何故でしょう…。

もうお分かりかと思いますが、アメリカ企業のカーネルおじさん似!! アメリカではおじ様がロゴですが、中国ではおば様がロゴとなっています。ちなみにこのマダム「プリシアおばさん」と言う名前。

中国で見かけたら、話のネタに訪れてはどうでしょうか?