スティーブ・ジョブズ本の翻訳者が、彼の一人称を「僕」にしたワケ

スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクの著書の翻訳を手掛けた翻訳家、井口耕二さん。彼の仕事術と翻訳の技法を綴った一冊を今回、無料メルマガ『毎日3分読書革命!土井英司のビジネスブックマラソン』の著者である土井英司さんが紹介しています。

【興味津々。】⇒『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』

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「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋

井口耕二・著 講談社

こんにちは、土井英司です。

本日ご紹介する一冊は、『スティーブ・ジョブズ I・II』、『イーロン・マスク 上・下』、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』などの翻訳で知られる井口耕二さんが、その仕事術と翻訳の技法を綴った一冊。

世界同時発売までわずか4カ月。スケジュール前倒し。原稿届かず。変更アリ。

過酷な状況のなか、著者がどうやって一大翻訳プロジェクトを完遂したか、その一部始終が書かれています。

出版に関わる人間なら、「そんなの無理だ」と匙を投げてしまいそうなものですが、それをハイクオリティで成し遂げてしまう著者の仕事術と心構えに、心から敬意を表します。

土井は、翻訳者を目当てに本を選ぶということは滅多にしないのですが、ごくわずかに例外がいます。

『暗号解読』『フェルマーの最終定理』を訳した青木薫さん、『イノベーションのジレンマ』『ゆとりの法則』を訳した伊豆原弓さん、そしてこの井口耕二さんです。

もちろん、他にも素晴らしい翻訳者はいますが、この3名が訳した本は、読んでいて本当にワクワクします。

今回、井口さんの本を読んで、そのワクワクの裏に隠された壮絶な努力・手間がわかり、感慨深いものがありました。

なぜウォズニアックが「ぼく」で、ジョブズが「僕」なのか。なぜ“down the hall”を「廊下の向こう側」ではなく、「ホールの反対側」と訳したのか。

翻訳あるいは翻訳の仕事に興味のある方は、発売後に出された批判への回答を読めば、著者がいかに考えて訳出しているか、その奥深さに驚くと思います。

フィギュアスケート選手、東大工学部、大手石油会社を経て、フリーランスの翻訳者になったという異色の経歴も面白く、第3章<出版翻訳者の「塞翁が馬」人生>は、キャリアを考えるヒントとしても読めると思います。

編集を、土井の『「伝説の社員」になれ!』の担当編集者、青木由美子さんが担当しているということもあり、これが面白くないわけがありません。

わずか10センチの違いでも「接客の質」が大きく変わるモノってなぁんだ?

接客の質は、ほんの少しの差で現れてくると無料メルマガ『販売力向上講座メールマガジン』の著者で接客販売コンサルタント&トレーナーの坂本りゅういちさんは語ります。今回、坂本さんはご自身が経験したコンビニでの接客シーンを例に、接客の質を高めるほんの少しの意識について紹介しています。

ほんの少しの差にこそ

接客販売をされている方の多くは、いかにして質を上げるかへの意識は高いことと思われます。

特にこのメールマガジンを読んでくれているような方々は、その意識は強いはずです。

しかし接客の質って、実際にはほんの少しの差で現れてくるものです。

そのほんの少しに意識を向けられるかどうかの差にしか過ぎないんですね。

例えば、つい先日ドラッグストアでのど飴を購入しました。

僕が超愛用している、袋入りの龍角散のど飴です。(あれ、マジでいいです)

商品をレジに持っていき、レジを打ってもらった際にバッグがあったので袋は断り会計を済ませました。

すると店員さんは、スムーズに会計をしてくれたのですが、のど飴の袋をレジ代の店員さん側に近いところに置かれたのです。

僕が会計を済ませて商品を取るには、10~15cm程度手を伸ばす距離が遠くなるくらいですね。

この10cm程度の距離にも、違いは表れると思うのです。

常にお客様へ意識が向いている人は、商品を置く位置をお客様側に寄せて取りやすいようにするでしょう。

また人によっては手渡しをする人もいらっしゃるかもしれません。

どうでも良いと言えばどうでも良い、かなり小さなことなのですが、この小さなことこそが大事なんです。

なぜなら、(これまでに何度もお伝えしているように)『何のためにその仕事をするか』が表れるからですね。

ほんの小さな作業でも、「作業のために作業をする」ことはありません。

次の作業のために作業をすることはあっても、最終的には商売である以上は、お客様のためにやることになるわけです。

レジ打ちひとつとっても、袋詰めひとつとっても、何においても同じことが言えます。

その最後のところでお客様が「利用しづらい」とか、「ん?」と感じるようなストレスを与えれば、どれだけスムーズな作業でもどれだけ丁寧な接客でも、せっかくの努力が報われません。

そういう部分って、本当に小さなところに表れてしまうのです。

コーヒーショップでマグカップをお客様が持ちやすく回してお渡しするのもそう。

何かに記入してもらうときに、ボールペンをノックしてお渡しするのもそう。

どんな店でも必ず細部に差が出ることは存在します。

ほんの少しの差が出てしまうようなところにもう一度目を向けてみましょう。

今日の質問&トレーニングです。

1)自店でお客様に商品や何かを渡す時、質に差が出てしまうそうなことは何ですか?

2)その部分をより良いものにするためには、どんな行動が必要ですか?

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カマボコの板2枚で解決。ソニー創業者・井深大がパートのおばさんを“リーダー”として尊敬した話

ソニー創業者の井深大さんが、主婦にもわかりやすく語ったリーダーシップ論。トイレの落書き事件から始まったそのお話を今回、無料メルマガの『致知出版社の「人間力メルマガ」』で紹介しています。

ソニー創業者・井深大のリーダーシップ論

本日は「朝礼・スピーチに使える話」と題して、はとバス元社長・宮端清次氏のお話をご紹介いたします。

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「ソニー創業者・井深大のリーダーシップ論」

 宮端清次(はとバス元社長)

『致知』2007年8月号より
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リーダーシップの勉強を始めようと私が思ったのは、三十年以上前のことです。

都庁で管理職になった頃、現役を退いたソニーの井深大さんの講演を聴きに行ったんです。

そこで井深さんは一時間ほどリーダーシップの話をされましたが、私にはよく分からなかった。

すると終了後に、ある女性が手を挙げて「失礼ですが、いまのお話はよく分かりませんでした。私のような主婦にでも分かるように話をしてくれませんか」と言ったんです。

司会者は大慌てでしたが、さすがは井深さんですね。ニコッと笑って、こんなお話をされました。

「ソニーの社長時代、最新鋭の設備を備えた 厚木工場ができ、世界中から大勢の見学者が来られました。しかし一番の問題だったのが便所の落書きです。

会社の恥だからと工場長にやめさせるよう指示を出し、工場長も徹底して通知を出した。

それでも一向になくならない。そのうちに『落書きをするな』という落書きまで出て、私もしょうがないかなと諦めていた。

するとしばらくして工場長から電話があり『落書きがなくなりました』と言うんです。

拡声器で「北朝鮮にすべてを伝える」韓国の放送は、どうやら“ダメージ大”らしい

9・19南北軍事合意の効力を停止することに決めた韓国政府。これで、北朝鮮が挑発してきたときにいつでも北朝鮮に向けて「拡声器放送」を行うことができるようになりました。無料メルマガ『キムチパワー』の著者で韓国在住歴30年を超え教育関係の仕事に従事している日本人著者が、この拡声器対応によって何が得られるのかについて語っています。

北が一番嫌がる「拡声器」対応、再開の根拠ができる

韓国政府は6月3日、9・19南北軍事合意の効力を停止することを決め、北朝鮮の今後の挑発時にいつでも対北朝鮮拡声器放送を再開できる道を開いた。現在、軍が対北朝鮮拡声器の再開など準備態勢を整えているだけに、政府が決定さえすれば、数日内でも対北朝鮮放送が可能になった。

国家安保室はこの日午前、キム・テヒョ国家安全保障会議(NSC)事務局長主宰でNSC実務調整会議を開き「9・19南北軍事合意」全体効力停止案件を4日国務会議に上程することにした。ただ対北朝鮮拡声器の再開については言及しなかった。

対北朝鮮放送は、国会の議決事案ではなく、大統領が決心すれば直ちに再開できる。しかしそのためには9・19南北軍事合意の効力停止がまず進行されなければならない。効力停止は国務会議の議決を通じて可能だ。政府が4日、国務会議案件として軍事合意効力停止を上程しただけに、今後北朝鮮が再び挑発をすればいつでも対北放送カードを取り出すという観測が出ている。

対北朝鮮放送は、北朝鮮の体制を揺さぶることができる最も強力な心理戦手段の一つに挙げられる。特に、今のように北朝鮮住民が韓国に関心を持っている時期に対北朝鮮放送は北朝鮮体制の維持に致命的になりかねない。

2日夜、北朝鮮が朝鮮中央通信を通じて発表した北朝鮮の姜日(カン・イル)国防相(次官)談話で「国境を越えてゴミなどを散布する行動を暫定的に中止する」と明らかにしたのも、北朝鮮の拡声器再開と無関係ではないという分析だ。

対北朝鮮拡声器は江原道(カンウォンド)と京畿道(キョンギド)の国境地域に固定式10個余り、移動式装備40個余りがあるという。天気と時間によって異なるが、短くは10km、長くは20~30km離れた距離でも聴取が可能だとされている。

作詞家・なかにし礼と映画監督・篠田正浩は、なぜ俳句や短歌の「七五調」を嫌ったのか?

日本人が自身の感情や目の前の情景などを書き記すときに好んで用いる七五調。万葉の時代から脈々と受け継がれる短歌と、そこから派生した俳句の七五調が、日本人の美意識や行儀良さを育んできたとする説もあります。そんな「七五調」を批判した人として、作家で作詞家のなかにし礼さんと映画監督の篠田正浩さんの名前を挙げるのは、著名人批判を七五調で展開することもある評論家の佐高信さんです。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、雑誌『俳句界』で20年続いた佐高さんの連載対談内で語られた、上記お二人の「反七五調論」を「共鳴するものはある」と紹介しています。

七五調への警戒

『俳句界』の「佐高信の甘口でコンニチハ!」という連載対談が終わった。第1回のゲストが筑紫哲也で、およそ20年続いたから、200人を越える人に相手をしてもらったことになる。

北島三郎や都はるみなど演歌歌手も多かったが、ズーッと気になっていたのは作家のなかにし礼と映画監督の篠田正浩の七五調批判だった。詩人の金時鐘にも指摘された。

作詞家としても知られるなかにしは、歌詞を書く時、「七五調では書くまい」と決めたという。

「七五調にきれいに収まることで知られる日本人の精神の安定、美意識、行儀のよさ、収まることの粋な感じとか、そういうところから外れたところにある日本人の情緒、美しさ、共感が必ずあるはずだ」

そう思ったからだった。

端的に言えば、七五調では「革命」は歌えないということだろう。あるいは、七五調は革命を抑える働きをする。それに対して、シャンソンは革命の応援歌らしい。なかにしによれば、あのレーニンも革命が成功した時、「諸君!ワルツを踊ろう」と言ったくらい、ワルツというのは革命の応援のリズムであり、そうしたものがシャンソンの源流にはある。

そんななかにしが唯一好きな俳人は山頭火。芭蕉も蕪村も子規も優れた俳人だとは思うけれども、「僕の友だちではない」とか。そして、とりわけ好きな句として「分け入っても分け入っても青い山」を挙げた。

「俳句の七五調を壊し、力強くものを言う。そういう抵抗心を持たないと、日本の将来は暗いと思いますね」

篠田正浩にとっては、七五調は「終戦以前の日本の象徴」のようだった。軍国少年だった篠田にとって七五調は「天皇家へとつながる韻律」でもあり、戦後を迎えて篠田はまず、「七五調を捨てたい」と思った。

天皇家は「日本語の家元」であり、たとえば古今和歌集などの勅撰和歌集が担ってきた役割は大きい。日本文化は七五調によってつくられていると言っても過言ではないほど、日本文化の軸になっている。とはいえ、アウトサイダーの文芸だから、短歌よりは俳句の方が好きだという篠田は、蕪村に惹かれると言い、「辻堂に死せる人あり麦の秋」を挙げた。

川柳も七五調だが、鶴彬のそれは七五調を用いながら、七五調へのアイロニーがあり、七五調を壊す内容を盛っている。

七五調に浸りながら、なかにしや篠田の反七五調論にも共鳴する私は、やはり、なかなか七五調から離れられない。それで、たとえば最近は子規の「紫陽花や昨日の誠今日の嘘」といった句を小池百合子批判などに使っている。

そういえば、なかにしの作った「私、バカよね、おバカさんよね」という歌詞を、典型的なおバカの甘利明批判に利用した。伊集院静が師事していた甘利である。

この記事の著者・佐高信さんのメルマガ

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プーチンが密かに狙う「ウクライナに親ロシア政権を誕生させたら終戦」という最悪シナリオ

アメリカからの軍事支援物資が次々とウクライナに到着したとの情報も入る一方で、戦況はロシアの優勢が伝えられるウクライナ戦争。ゼレンスキー大統領はシンガポールで開催されたアジア安全保障会議で支援を訴えましたが、反応は芳しくなかったというのが現実です。この状況を識者はどう見るのでしょうか。今回のメルマガ『最後の調停官 島田久仁彦の『無敵の交渉・コミュニケーション術』』では元国連紛争調停官の島田さんが、アジアや中東諸国がウクライナのバックアップに動かない背景を解説。さらに今後の戦争の行方と、各国が描く「戦争後の世界」のビジョンの考察を試みています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:End Game for Whom?-イスラエル・ウクライナ・ロシア…国際秩序

揃わない足並み。各国の利害が絡み見通せぬ「戦争が終わった後の世界」

アジア安全保障会議にゼレンスキー大統領が赴き、アジア諸国に支援を訴えかけましたが、まさに暖簾に腕押しといったイメージを持ったのと同様、以前、アラブ諸国の会合に参加した際にも具体的な支援やバックアップを全く得ることが出来なかったのは、中東諸国のEnd Gameのビジョンにも、アジア諸国が描くEnd Gameのビジョンにもウクライナの居場所がなかったことが主因だと考えます。

穀物の一大生産・提供国というウクライナのかつての立場は、今回の戦争による破壊でなくなり、アジア諸国にとってもアラブ諸国にとっても必要不可欠な存在ではなくなっています。いずれロシアとの戦いにピリオドが打たれた暁には、復興のマーケットが開くため、何とか権益の確保はしておきたいという思惑はあるでしょうが、戦況がロシア有利に傾く中、「ウクライナに対しては取り急ぎ何もせず、ロシアとの関係をキープしておくほうがベターだろう。そもそもウクライナ支援とロシア排除は欧米諸国とその仲間たちが勝手に行ったことであり、我々には直接的に関係がないし、ましてや欧米諸国から命令される謂れもない。ウクライナはかわいそうだが、関わるとろくなことにならないのではないか」との考えが勝っているように見えます。

それをロシアも(中国も)よく知っており、アラブ諸国ともアジア諸国ともそれなりにうまく付き合う戦略を強化しています。

ロシアのEnd Gameは先週号のグランドデザインでも描いたかと思いますが、独自の勢力圏を再確立し、拡大したうえで、欧米諸国の影響力を自国のsphere of influenceから排除することで、ロシアの国家安全保障を確立することと表現できるかと思います。

【関連】インド政府を激怒させ、中国から痛烈な皮肉を浴びた米国。長期的な「全体構想」なき国際情勢の行方

ウクライナ戦争をいつ終わらせるかの決定権は自身の手の中にあるというのが、どうもプーチン大統領の思考のようで、アメリカ製の武器がロシアを襲ってきてもものともせず、真綿で首を締めるようにじりじりとウクライナを追い詰め、可能な限り内からの崩壊を引き起こさせ、ロシアの傀儡を誕生させた上で戦争を終わらせるというシナリオを描いているように見えます。

その先は繰り返しになりますが、スタン系の国の取り込みとバルト三国への小規模な侵攻と内政の混乱の誘発、さらには周辺国への恐怖の植え付けを行った上で自国の影響圏を拡げるというEnd Gameが見えます。

その背後でNATOの団結・結束を切り崩し、「NATOは何一つできない」というイメージをクローズアップしたいという狙いも透けて見えますが、それを可能にするかどうかを占うのは、中国とトルコの協力度合いでしょう。

この記事の著者・島田久仁彦さんのメルマガ

天安門事件で地に落ちた信用を取り戻すために「天皇訪中」を利用。なぜ窮地を逃れた中国は“日本悪魔化プロパガンダ”を始めたのか?

35年前の6月4日に発生し、一説では1万人以上が犠牲になったと伝えられる天安門事件。自国民に銃を向けるという蛮行で国際社会の信用を失った中国に、我が国がまんまと利用されたことは広く知られた事実でもあります。今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんが、中国共産党がいかにして天安門後の窮地を脱したかを改めて振り返るとともに、日本が忘れてはならない「教訓」を書き記しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:天安門事件から35年、日本が決して忘れてはいけない教訓とは?

天安門事件から35年、日本が決して忘れてはいけない教訓とは?

全世界のRPE読者の皆様、こんにちは!北野です。

6月4日は、中国で天安門事件が起こった日です。今年で35年になります。

これ、私たちの年代の人は、記憶があるでしょう。しかし、若い人たちは知らないかもしれないので、一応「天安門事件とは何か?」について。「NHK 政治マガジン」から。

天安門事件は、1989年6月4日、北京の天安門広場に集まり民主化を求める学生や市民を、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧したものです。

保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことをきっかけに、北京にある天安門広場で学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変わっていきました。

さらに、中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われました。

事態を重く見た中国共産党は北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲して武力で強制的に鎮圧しました。

この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。

中国政府の発表では死者319人ですが、「少なくとも1万人」という情報もあります。

「天安門事件の死者は1万人」 英公文書を公開

正確な犠牲者数が明らかになることは、おそらくないでしょう。

さて、この事件で何が変わったのでしょうか?中国の評判が失墜しました。

この事件前のできごとを見てみます。1970年代初め、アメリカは、ライバルソ連に勝つために、中国と「事実上の同盟国」になることを決めました。1972年、ニクソンが中国を訪問し毛沢東と会ってから、米中関係はずっと「事実上の同盟関係」(当時の大統領補佐官キッシンジャー曰く)だったのです。

1976年、毛沢東が亡くなりました。1978年鄧小平が中国の実権を握ります。鄧小平は、真のリアリスト。アメリカや日本から資金と技術をもらい、中国経済を大発展させる決意を固めていました。

小柄で、微笑みを絶やさず、悪気なさげにみえる鄧小平は、日本や欧米で大人気だったのです。しかし1989年に起こった天安門事件で、日本と欧米は、「鄧小平の本性」を知ってしまった。

天安門事件から2年後の1991年、ソ連が崩壊しました。このことは、「アメリカ・中国同盟の共通の敵が消滅した」ことを意味していました。つまり、「米中同盟の意義」が消えてしまったのです。そして、アメリカでは、「唯一の敵ソ連は崩壊した。では、なぜアメリカは、天安門で学生を大虐殺した共産中国と仲よくしているのか?」と当然の疑問がでてきたのです。

ガーシー“落語家転身”は迷惑千万。「東笑亭ガーシー」デビューに色気の東谷義和氏に「●●●●にしときなさい」厳しい助言が飛ぶ理由

暴露系YouTuberの元参議院議員、ガーシーこと東谷義和氏(常習的脅迫等で懲役3年、執行猶予5年)の“落語家転身プラン”に、落語界を含む内外から批判があがっています。いくら“話術を活かした仕事”と言っても、何のひねりもない違法暴露ネタしか取り柄がないガーシーに噺家なんてやれるわけがないでしょ、というのがその理由。その一方、芸能界では「性格俳優ならガーシーでもやれるかもね…」の声が?芸能記者歴30年のベテランジャーナリスト・芋澤貞雄さんが解説します。

ガーシーこと東谷義和氏の“落語家転身”が批判される理由

今年3月、常習的脅迫等の罪で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受けた元参議院議員・ガーシーこと東谷義和氏が落語家に転身する気持ちがあると、あるトークイベントで話したそうです。

有罪判決後の東谷氏の身の振り方については様々な情報が囁かれていましたが、落語家とは…。

なんでも最もリスペクトしている人に今後の生き方を相談したところ、「話術を活かした落語家は?」と提案され「俺にしかできへんちゃうか。向いてるな」と思ったそうで、ある落語家からは「人の看板はいらない。自分で看板をあげて下さい。創作落語をやったら絶対いける」とも言われたそうです。

「人の看板は~」と言った落語家は、自分のところに弟子入りに来た東谷氏を断るために自分で看板をあげて下さいと言ったのかはわかりませんが、素人の私でも創作落語や高座に上がることがどんなに難しいことかは何となくわかります。

できっこないから無責任に言っただけなのかはわかりませんが、師匠に弟子入りし、脱いだ草履を整えるような地味な修行から始まる落語家に、東谷氏は本気でなろうという覚悟があるのでしょうか。

こんな時代ですから、落語界の慣習や仕来りを一切無視して、和服姿で高座のような場所から勝手に動画を配信でもすれば落語家のようには見えるでしょう。

でもそんな人物をもし“落語家”と呼ぶなら、250年にもなる日本の古典芸能に泥が塗られるような気がするのは私だけでしょうか…。

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ガーシーの迷惑系暴露ネタは“話術”にあらず

高座名は『東笑亭ガーシー』を考えたとも話す東谷氏は「ガチでやっている。茶化すつもりはない。本気で笑いを取りにいこうと思っているし、1回ちょっと見てほしい…」と意気揚々です。

暴露系YouTuberとしてあれだけ熱い支持を集めた人ですから、演目はやり玉に挙げる芸能人の面白暴露小噺でしょうし、そうなれば昔ながらの寄席には入り切れないほどのお客さんも集まるかもしれません。

もしかしたら扇子や手ぬぐい、着物の所作も知らぬまま、熱心な信者を弟子に取り、新流派を立ち上げることだって、これまでの彼の生き様を見れば十分考えられます…何だか恐ろしくなってきます。

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イーロン・マスクと「AIのゴッドファーザー」が旧Twitter上で繰り広げた“子供の喧嘩”は、米国のエネルギーの源か?

2023年7月にイーロン・マスク氏が設立した、人工知能の開発を行う企業「xAI」。同社に関するマスク氏のX(旧Twitter)へのポストをめぐり勃発した「一悶着」が一部メディアで報じられ話題となっています。今回のメルマガ『『グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中』~時代の本質を知る力を身につけよう~』では、『グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた』等の著作で知られる辻野さんが、マスク氏とメタ社のAI部門トップのヤン・ルカン氏がX上で繰り広げた「喧嘩」の様子を紹介。その上で、互いに負けず嫌いな性格を隠すことのない大物2人のやり取りから感じた率直な感想を記しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:メタのAI部門トップ ヤン・ルカンとイーロン・マスクの喧嘩

プロフィール辻野晃一郎つじの・こういちろう
福岡県生まれ新潟県育ち。84年に慶応義塾大学大学院工学研究科を修了しソニーに入社。88年にカリフォルニア工科大学大学院電気工学科を修了。VAIO、デジタルTV、ホームビデオ、パーソナルオーディオ等の事業責任者やカンパニープレジデントを歴任した後、2006年3月にソニーを退社。翌年、グーグルに入社し、グーグル日本法人代表取締役社長を務める。2010年4月にグーグルを退社しアレックス株式会社を創業。現在、同社代表取締役社長。また、2022年6月よりSMBC日興証券社外取締役。

子供の喧嘩か。負けず嫌いなイーロン・マスクとAIのゴッドファーザー

本メルマガでは、AIを巡る話題についても多く取り上げてきていますが、「AIのゴッドファーザー」と呼ばれる人物の筆頭が、以前にここでも紹介したジェフリー・ヒントンです。ヒントンは、米国からカナダのトロント大学に移籍してから多くの優秀な門下生を育てています。

その中には、ヒントンと共にALEX Net(画像認識AI)の構築を手伝い、OpenAIの立ち上げにも関わったイリヤ・サツキーバーや、現在、メタのAI部門トップを務めるヤン・ルカンなども含まれています。ちなみにサツキーバーは先日OpenAIを辞めました。

ヒントン、ルカン、そして現在カナダのモントリオール大学教授のヨシュア・ベンジオの3人は、深層学習(ディープラーニング)に関する研究が高く評価されて、2018年のチューリング賞を揃って受賞しています。その結果、この3人を「AIのゴッドファーザー」と呼ぶこともあります。

そのヤン・ルカンが、5月22日に公開されたフィナンシャル・タイムズのインタビューの中で、OpenAIのChatGPTやグーグルのGemini、メタのLlamaのような大規模言語モデル(LLM)を基盤とするAIでは、将来的に「人間レベルの知能には到達できない」と語っています。

ルカンは、「LLMに基づくAIモデルは、膨大な量のデータを使って訓練されるが、正確な答えを導く能力は、訓練されたデータの性質によって制限される」と語っており、「正しい答えを導き出すのは、これらのモデルが適切なデータで訓練された場合に限る」としています。

さらに、「LLMは、限られたロジックの理解しか出来ず、永続的な記憶を持たず、物理的な世界を理解せず、階層的な計画を立てることができない」と説明し、「理にかなった推論は行えない」と結論付けています。

そして、「人間と同じレベルのAIを望む研究者は、他のモデルに目を向けるべきだ」と語っていますが、彼は、メタのAI研究組織であるFundamental AI Research(FAIR)において、約500人からなるチームと共に、「ワールド・モデリング」と呼ばれる別のアプローチに基づく次世代のAIシステムの開発に取り組んでいることを明らかにしています。これについては、「システムが周囲の世界を人間のように理解し、何かが変わった場合に、何が起こるかを予測する感覚を養うものだ」としており、ワールド・モデリングのアプローチに基づいて人間レベルのAIを実現するには、最大で10年程度かかるだろうと予測しています。

この記事の著者・辻野晃一郎さんのメルマガ

幻の駄菓子屋ゲーセン『ばっちゃん』は本当に実在したのか?1プレイ20円、マリオではなくマサオ…昭和の小学生を魅了した尼崎の社交場

木造アパートの1階。玄関を開けると駄菓子に埋もれた店番のおばあちゃんが座っていて、部屋の中はアーケードゲームで埋め尽くされていた――元ゲーム少年のAさんが今もその影を追う「幻の駄菓子屋ゲーセン」は、本当に実在したのだろうか。

白昼夢か現実か?ネットでは情報が見つからない幻の駄菓子屋ゲーセン

「駄菓子屋ゲーセンと言っても、店の軒先にゲームが1~2台置かれているような、よくある店構えとはぜんぜん違って。そのゲーセンは、木造2階建てアパートの1階角部屋がまるまる店になっていて、靴を脱いで部屋に上がると、中はアーケードゲームで埋め尽くされていました」

小学生の一時期に通った駄菓子屋ゲーセン『ばっちゃん』を懐かしく回想するのは、関西出身で現在は都内在住の40代後半男性Aさんだ。レトロゲーム好きのAさんによると、この店は1980年代半ば、現在の兵庫県尼崎市栗山町近辺に存在した“はずだ”という。

「私は昔からゲームが大好きで、行き付けだったゲームセンターがその後どうなったかをネットで調べることがあります。ほとんどの店が閉店してしまいましたが、それでも当時を懐かしむゲーマーたちの回想記や写真がたくさん見つかる。でも、この尼崎の『ばっちゃん』だけは、いくら探しても誰も何も言及しておらず、情報らしい情報がいっさい見つからないんですよ」(Aさん)

当時Aさんは尼崎市のお隣、伊丹市に在住。春休みに尼崎の叔父の家に泊まりに行ったさいに『ばっちゃん』を“発見”し、その後たまに自転車で“遠征”するようになった。店は尼崎市立立花小学校の徒歩圏内にあったと思っている。客の多くがこの小学校に通う子どもだったからだ。

だが、いつの間にか店は消えてしまった。親戚一家はすでに亡くなり、ネットでも手がかりが見つからない。「あんなにすごいゲームセンターだったのに、どうして誰も話題にしていないんだろう。ひょっとして自分は白昼夢でも見ていたんだろうか」と、ずっと気になっている。

本当に実在したかどうか不安になる幻の駄菓子屋ゲーセン。レトロゲームファンならずともちょっと面白そうだ。Aさんに詳しく話を聞くことにした。

木造アパートの一室がゲーセン、店番のおばあちゃんが玄関に鎮座

なにせ40年近く前の話だけに、Aさんの記憶も曖昧だ。だがもう少し手がかりがほしい。『ばっちゃん』は具体的にどんな駄菓子屋ゲーセンだったのか?

「外観はごく普通の木造アパート、いわゆる文化住宅ですね。店の看板は出ていませんでした。営業時間中は1階角部屋の玄関引き戸が半開放されていて、店番のおばあちゃんが駄菓子に囲まれて鎮座していたので、お店なんだなということは外からでもわかる。『ばっちゃん』は正式な店名ではなく、子どもたちの間の通称だったと思います。

ゲーム部屋は土足厳禁で、靴を脱いで部屋に上がり込むのがルール。部屋に入ると、むかって左側にテーブル筐体のシマ、右側にアップライト筐体のシマがあり、中央に小学生同士がギリギリすれ違えるくらいの“通路”スペースがあったように記憶しています。6畳間よりはかなり広かった印象ですが、もしかすると4.5畳くらいの数部屋をぶちぬいていたかもしれません。子どもの感覚なので正確な面積は不明です。

足の裏が冷たかったので、床はたぶん畳ではなく板張り。部屋の照明はいくつかの裸電球で、人の表情がギリギリわかる程度でかなり暗かった気がします。料金は1プレイ20円と安く、店番のおばあちゃんに脱ぎ散らかした靴を揃えてもらったり、手渡しで100円玉を10円玉に両替してもらったり…というシステムになっていました。自分の年齢やゲーム歴から、おそらく1985年(昭和60年)前後のはずで、子どもたちに人気の店だったのですが、それがなぜ潰れてしまったのか、いつの間に消えてしまったのか、いくら調べてもわかりません」(Aさん)

かなり具体的な情報だ。Aさんの記憶違いが含まれる可能性もあるが、いかにも子どもたちが好みそうな“秘密基地”。それが小学校の徒歩圏内にあり、おそらくは駄菓子売り場よりもゲーム機の床面積のほうがはるかに広く照明が暗かったということは、『ばっちゃん』は、1985年の改正風営法施行よりも以前に存在した店ではないだろうか。

このときの法改正でゲームセンターが風俗営業の1つに指定され、国の規制が強化された結果、『ばっちゃん』のような店を経営するのは難しくなったはずだからだ。

『ばっちゃん』の設置ゲームは1983年以前のものが中心

『ばっちゃん』では、どんなゲームが遊ばれていたのだろうか?各タイトルの稼働開始年を調べれば、店が存在した時期をさらに絞り込めるかもしれない。

「私を含む小学生たちが当時、よくプレイしていたのは『マリオブラザーズ』と『ギャラクシアン』、それに『ハイパーオリンピック』でしたね。特にマリオはやり込みました。それから、もっぱら見物専門でしたが『ジッピーレース』がやけに上手い不良風の、たぶん中学生が1人いたのも覚えています。店には全部で10台以上、ひょっとしたら20台近くゲームが置かれていた気もするのですが、他にどんなタイトルが稼働していたか……」(Aさん)

Aさんが記憶から絞り出した設置ゲームを、年代順に並べなおしてリストにしてみた。

  • スペースインベーダー(1978 タイトー)
  • ギャラクシアン(1979 ナムコ)
  • パックマン(1980 ナムコ)
  • ギャラガ(1981 ナムコ)
  • ペンゴ(1982 セガ)
  • ジッピーレース(1983 アイレム)
  • ハイパーオリンピック(1983 コナミ)
  • マッピー(1983 ナムコ)
  • マリオブラザーズ(1983 任天堂)
  • フリッキー(1984 セガ)

Aさんによると、『フリッキー』は「たぶん置かれていた気がする」程度。その他のゲームはいずれも1983年以前に発表されたタイトルばかりだ。他にもゲームはあったはずというが、『ばっちゃん』はやはり、1980年代前半~1984年頃にかけて存在した店である可能性が高いのではないか。