ベネッセに批判の声殺到。共通テスト受注をウリにした営業が発覚
大学入学共通テストに導入される記述式問題を巡り、ベネッセコーポレーションが関連業務を受注している事実を示し、高校関係者向けに自社サービスを紹介する会合を開いていたことが20日、分かったと、共同通信、日本経済新聞などが報じ…
Details大学入学共通テストに導入される記述式問題を巡り、ベネッセコーポレーションが関連業務を受注している事実を示し、高校関係者向けに自社サービスを紹介する会合を開いていたことが20日、分かったと、共同通信、日本経済新聞などが報じ…
Details
若い女の子の「メガネ外したら実はかわいい」あるある、よく漫画とかドラマとか、あるいは実際に耳にしたこともありますよね? でも、これが子育てもひと段落し始めて「美魔女」なんて呼ばれ始める40、50代の奥様だとしたら、「メガネで困るあるある」が、、、、そう「老眼問題」…。
長年「メガネ愛用者」だった私も、40代に入ってからは、そろそろ近くのものが見えづらくなってきました。。。見るもの、使うものによってメガネをチェンジする煩わしさは相当なもの。それは世の奥様も同じではないでしょうか?
そして、「実はメガネを外したら、うちの奥さんも、ちょっと若く見えるんじゃないか?」なんて心で思いながらも口にできない世の旦那さまにおすすめしたいのが、コンタクトレンズ大手・エースコンタクトさんの「遠近両用コンタクト」です。
あの「メガネを外したら美人だった」を奥様にも。そんなキッカケとなりそうなのが、エースコンタクトさんの「遠近両用コンタクト」。最近手前も奥も見えづらくて、、、と口にした時がデビュー時。
そんな奥様のコンタクトデビューは「今」がいいのです。その理由は、エースコンタクトさんが11月30日まで、初めてご利用の方限定で「30%OFF」になる、コンタクトレンズデビューを応援するキャンペーンを実施しているからです。さらに、すでに利用がある方も対象の遠近両用のコンタクトレンズの購入が初めてなら30%OFFなんだとか!
年末を前に「惚れ直したよ」なんて一言かけたい旦那様に、そして「新たな一面」を夫に魅せたいと密かに思っている奥様に、”脱メガネ”&コンタクトレンズデビューはいかがでしょうか。
image by: shutterstock.com
PR: 株式会社ダブリュ・アイ・システム
日本が世界に誇るiPS細胞研究に暗雲が立ち込めています。先日、政府が京都大学に、iPS備蓄事業に対する年間10億円の予算を打ち切る可能性を伝えたことが報じられました。なぜ国は、自ら日本の未来を潰すような愚行に出るのでしょうか。健康社会学者の河合薫さんは自身のメルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』で、今回の決定に至る背景には「生産性」ばかりを追求するという昨今の流れがあるとし、研究費打ち切りについては「人の命とカネを天秤にかけたようなもの」と厳しく批判しています。
※本記事は有料メルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』2019年11月20日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。
プロフィール:河合薫(かわい・かおる)
健康社会学者(Ph.D.,保健学)、気象予報士。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(Ph.D)。ANA国際線CAを経たのち、気象予報士として「ニュースステーション」などに出演。2007年に博士号(Ph.D)取得後は、産業ストレスを専門に調査研究を進めている。主な著書に、同メルマガの連載を元にした『他人をバカにしたがる男たち』(日経プレミアムシリーズ)など多数。
19日火曜日、拒絶反応が起きにくい再生医療をめざす京都大学のiPS細胞の備蓄事業について、政府が、年約10億円を投じてきた予算を打ち切る可能性を京大側に伝えたことがわかりました。
この一方が報じられる数日前、山中伸弥所長(京都大学iPS細胞研究所)が記者会見を開き、予算打ち切りにふれ「いきなり支援をゼロにするのは相当に理不尽」と憤りを見せていたのですが、悲しくもそれが現実になってしまったかっこうです。
報道によれば企業ニーズとの違いが浮き彫りになったことが背景にあるとのこと。京大が進めている事業化への方針だと、多額の費用と試験の手間がかかると企業側が判断したというのです。
しかしながら、決定の通知は一方的。山中所長によれば、「国の決定には従う。だが公開の議論と別のところで話が決まってしまう。理由もよくわからない」とのことでした(11日の記者会見で)。
つまり、研究者サイドが「もうちょっとしっかり芽を育てた方が、事業が広がっていく」と訴えているのに対し、国は「今のままでいいじゃん。あとはキミたちでひとつよろしく!」と突き放した。「企業のニーズ」という体のいい言葉は、「このままじゃもうからない」と同義で。「どんどん儲かるように進めていかなきゃダメっしょ!」と、研究より商売を優先したのです。
…んったく。今までもさまざまな分野で、研究者の知見が最後の最後で捻じ曲げられ、研究者を軽視する姿勢に辟易していましたが、今回の決定は「人の命」とカネを天秤にかけたようなもの。
このままでは日本に愛想を尽かし、優秀な頭脳はみな海外に流出してしまいます。既にそういった空気はあちこちで漂っていますし、このままでは山中教授だって日本に愛想を尽かしてしまうかもしれません。
いずれにせよ、今回の政府の決断は日本の科学力の衰退に拍車をかける愚行です。日本の世界における科学分野の相対的な地位が年々低下していることは、みなさんもご存知のとおりです。
2017年に英科学誌「ネイチャー」(3月23日号) に掲載された「Nature Index 2017 Japan」というタイトルの論文によれば、2005年~15年までの10年間で、日本からの論文がほぼすべての分野において減少傾向にあることがわかりました。
例えば、ネイチャー・インデックスという高品質の自然科学系学術ジャーナルのデータベースに含まれている日本人の論文数は5年間で8.3%も減少。この期間に世界全体では論文数が80%増加したのに対して、日本からの論文はたったの14%しか増えてないこともわかっています。
しかも、日本の若手研究者は研究室主催者(PI: principal investigator)になる意欲が低く、「研究者の育成も期待できない」という有り難くない指摘まで海外の研究者にされてしまったのです。
もっとも、研究費は少ない、非正規雇用で短期間で成果をださなきゃいけない――。そんな状況で「研究者魂の火」を燃やし続けることなどできるわけがありません。
ノーベル賞を日本人が取ると、国はまるで自分たの手柄のように振舞いますが、それは先人たちが教育を大切にしてきたからこそ。明治時代に日本に来た外国人は、日本人の識字率の高さや学校における教育の質の高さに感銘をうけたといいます。
大学にもたくさんのカネをつぎ込み、研究者が育つ土壌を作ってきたことが、何年もの歳月をかけてやっと今花開いている。なのに…カネは出さない、でも成果は欲しい。そんな日本のお偉い人たちは自分たちがやっていることが日本を弱体化させていることに気が付いていないのです。
「桜を見る会」の招待者推薦について、自身が関与していたことを安倍首相と夫人のそれぞれが認めるなど、その数々の「真実」が明らかになってきています。そんな催しにかつて「勧誘」された経験があるというのは、毎日新聞や共同通信にて記者経験のあるジャーナリストの引地達也さん。引地さんは自身のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』で、その際に抱いた偽らざる感情を記すとともに、首相への追及の手を緩ぬ野党に対して批判的なテレビコメンテーターの姿勢を「鈍感」と記しています。
「桜を見る会」の在り方が国会で取り上げられ、それが社会の問題として大きく取りざたされてからこうして追随するように書くことになってしまうのに気が引けてしまうのだが、ここ数年、「桜を見る会」の様子をニュースで見るのが不愉快だった。
それは特に安倍晋三首相という時の為政者がその輪の中心にいることによるものであるのは間違いないのだが、その不愉快の正体をつかむことをせずに、ただ心の居心地が悪いと、目をそらすようにしていたことを反省している。
時の政権を担うだけの人間が我が物顔で季節の風物詩の中に登場し、芸能人を媒介にした庶民ぶりを演出するのは、権力を使った庶民を掌握する術の1つだから、安倍首相に限らず、「桜」を利用してきた歴代の政治家も含め、手法としては姑息な手段のようにも思える。
春の訪れを桜で感じる私たちのメンタリティに、桜を愛でることはもう少し身近で厳かであってほしいと願うのは、私の個人的な願いだろうか。
招待を受けたであろう方々と時の権力者との見せかけの交流がテレビ画面に出てくるのは、笑いが仕組まれたバラエティ番組と同様に「仕組まれた」演出の中で、知らずに予算が膨らんでいったのであろう。
時の権力者と写真におさまりたい人の厚顔無恥さと、それを「風物詩」として報じるメディアの浅はかさ。
日本国の象徴で政治に不関与の天皇の園遊会であれば、その価値を感じ、恐縮しつつも感謝し出席する人がいるのは理解できるが、桜を見る会は、単なる為政者からの恣意的な評価による招待であることは明らかで、特にこの数年、それが税金で賄われ、予算額をオーバーし続けていることを指摘する声が上がっている中で、疑惑への説明責任を果たしてこなかった現政権からの評価=招待はあまり喜べたものではない。
これを「皮肉れた感情」ともとれてしまうから、桜を見る会のニュースは、自分自身の不寛容さも突き付けられてしまうのが嫌だった。
テレビ報道などでは、桜を前に多くの方が楽しんでいる様子が批判なしに展開されてきていたから、そこに一人こぶし振り上げて反対を叫ぶほどの度胸も据わっておらず、今回の問題化で来年はそのニュースに遭遇することがないだけでもほっとしている。
「桜を見る会」の実態が報道されるにつれ、思い出したことがある。それは数年前、とある保守系の団体とつながりのある、との説明をしていた初対面の方が「桜を見る会の出席に興味ありますか?」と聞いてきたのである。
その時は、その人を私に引き合わせた旧知の知人が「引地さんはおそらく、そういうの好きじゃないよ」と言って、その先の話にはならなかったが、こんな会話は、時の権力に近そうな方では普通に行われ、それに「興味あります」と言って関係構築するケースもあるのだろうと思う。
それは時の権力者を頂点に桜を見る会をちらつかせた追従の強制のようで、やはり気味が悪い。
バブル景気を経験した世代にとって、「失われた30年」という現実はあまりに重いものですが、その意識は「物心ついた頃から不況」だったという現在の20~30代とは、共有することすら困難なようです。今回の無料メルマガ『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』では情報戦略アナリストの山岡鉄秀さんが、このような状況を憂うとともに、このままゆけば日本は中国の属国にもなり得ると警鐘を鳴らしています。
全世界のアメ通読者の皆様、山岡鉄秀です。
先日、ある団体から、青年向けの講演を依頼されました。私はよく、講演や講義の冒頭で、「日本の国力がこんなに衰退した理由はなんだと思いますか?」と聴衆に呼びかけます。
しかしその日は、ふと別の考えが頭に浮かんで、次のように呼びかけました。
「日本の国力が驚くほど低下してしまったと思う人、手を挙げてください」
びっくりしたことに、会場の半分ぐらいの人しか手を挙げていません。顔を見ると、中年以上の人が多いような気がします。
次にこう聞きました。
「日本の国力はずっと変わっていないと思う人、手を挙げてください」
するとなんと、残りの半分の人たちが手を挙げているではありませんか。そして、顔をみると、皆若く、20代、30代、といった感じです。
そのうちのひとりに、なぜそう思うか質問してみました。すると彼はこう答えました。
「雇用環境が改善しているし、日々普通に生活できますから。バブルの時代が異常だっただけだと思います」
この答えを聞いてはっとしました。
失われた20年がいつの間にか30年。
すると、今の30代が物心ついた頃、日本は既にバブル崩壊後。20代ともなれば、今の低空飛行が当たり前です。だから、彼らの目には、日本は変わっていない、むしろ、アベノミクスによって、雇用状況は良くなったのだから、事態が改善されているように見えてしまうのです。
考えてみれば当たり前ではありますが、衝撃でした。
今の20代、30代の若者とは、元気だった頃の日本のイメージを共有できないのです。
私が就職活動をしていた頃は、まさにバブル経済がピークに向かって駆け上がっていた途中で、列島が異様な熱気に包まれていました。
もちろん、バブル経済がいいと言っているのではありません。
しかし、あの頃の日本企業の国際競争力は強力で、平成元年においては、時価総額世界の上位100社に日本企業がひしめき、トップ10社のうち7社が日本企業でした。技術力も最先端でした。
就職活動で内定をもらったあと、他社を受けられないように拘束されるなんてことがざらでした。私も「山梨県ブドウ狩り」「芦ノ湖と彫刻の森美術館」「東京ディズニーランド」などで拘束されていました。私の友人は拘束旅行のせいで、第一志望の会社の最終面接を受けられなかったそうです。
確かに、異常な時代だったと言われればその通りなのかもしれませんが、平成のはじめ、世界のGDPのうち18%を占めていた日本のGDPが、今や6%に落ち込んでいます。まさか、ここまで後退するなんて、あの頃の日本人は誰も考えていなかったでしょう。
特にバブル崩壊と共に海外に飛び出した私は、その後目の前で日本国および日本企業の存在感がみるみる低下していくのを目の当たりにしました。
それどころか、なんとか日本法人を助けようと努力して顰蹙までかっていました。アメリカ人の上司にこういわれたのを今でも覚えています。
「君の努力はわかるが、日本なんて、ヨーロッパにおけるイタリアと同じじゃないか。特別扱いする理由はないんだよ」
この経験が今の危機感の根底にあるわけですが、なんと、期待すべき若い世代とその危機感を共有できないのです。彼らが安倍政権を支持しているのは、少しはましな環境を作ってくれたからで、必ずしも「元気だった日本を取り戻す」ためではないのです。
懇親会の席で同じテーブルに座ってくれた若者たちは、みな大人しくて礼儀正しい好青年ばかりで好感が持てました。ただ、なんとなくアルパカの群れに囲まれているような感じもしました。要するに「草食系」でしょうか。ほのぼのしています。
私の隣に座った青年が言いました。
「僕、ゆとり世代なんです」
彼が26歳と聞いて、私は言いました。
「そうか。僕はちょうど君の歳に、日本が窮屈で、自分の人生をリセットしようと海外に飛び出したんだよ」
彼の私を見つめる瞬きしない目が語っていました。
「そんな恐ろしいこと…」
厚生労働省は14日、化学テロが発生した際に、医師以外の消防隊員らが解毒剤の自動注射を打つことを認める報告書をまとめ、ようやくわが国の化学テロ対策も国際水準に近づくことになりました。ここに至るまでに声を上げ続け、実現への端緒を開いた危機管理の専門家で軍事アナリストの小川和久さんが、主宰するメルマガ『NEWSを疑え!』でその経緯を伝えています。小川さんは、今回の前進を評価しつつも、縦割り行政や官僚の思い込みが問題解決の道を阻んできたこと、これまでも同様のことが起こっていたことを指摘し、総括を求めています。
ちょっと嬉しいことがあって、思わずツイートしてしましました。
「地下鉄サリン事件から25年目。この間、日本国民は形だけの化学テロ対策を信じ、危険にさらされ続けてきました。それが今年2月、心ある政治家と志をもつ厚労官僚によって国際水準の化学テロ対策が実現。近く展示訓練も行う方向です。やればできる。やらないのは政治にリーダーシップがない証拠」
この動きについて、マスコミは次のように伝えています。
「厚生労働省は14日、化学テロでサリンなどの有毒物質が散布された際、医師以外の救急隊員らが解毒剤の自動注射を打つことを認める報告書をまとめた。同省は2020年東京五輪・パラリンピックを控え、化学テロ発生時の迅速な治療体制づくりを進める。 通常時は、解毒剤の注射は医療行為に該当し、医師や看護師以外は医師法違反になる。報告書は、自動注射を打てる対象者として、化学テロが発生した際に汚染地域(ホットゾーン)で救急搬送に当たる消防隊員や警察官、自衛官らを想定。治療には早期の解毒剤投与が必要である点などを挙げ、『非医師等による自動注射器の使用が許容される必要がある』とした」(11月14日付時事通信)
しかし、なぜ24年後のいままで国際水準の化学テロ対策が実現しなかったのか、その点に踏み込んだ報道はありませんでした。これは、日本のマスコミが一片の問題意識すら備えていないことの証明でもあるのですが、事情を知る者の一人として簡単に経緯を述べさせていただきたいと思います。
今年2月12日、私は大口義徳厚労副大臣の部屋で浅沼一成厚生科学課長、山本史医薬品審査管理課長と4人で話し合いました。その結果、その場で解毒剤の確保、自動注射器の導入などが決まったのです。
私は危機管理の専門家の一人として、機会を見ては化学テロ対策の不備を指摘してきました。いくら化学防護服に身を固めていても、現場に入ってすぐ被害者に解毒剤を注射しなければ手遅れになるからです。そのためには、解毒剤の確保や自動注射器の導入とともに、消防・警察・自衛隊など関係者が注射できるようにしなければなりません。
ところが、この面の担当省庁である厚労省側は医師法、薬事法などを理由に、「できない」を連発してきたのです。ほかの関係省庁も、この問題を解決するために動こうとはしませんでした。
そこで、2014年秋に総務省消防庁の坂本森男長官が設けた『大規模イベント開催時の危機管理等における消防機関のあり方に関する研究会』(非公開)の機会に、厚労省から消防庁に出向していた医系技官(医師)にしつこく問いただしました。この研究会が2020年の東京オリンピックとパラリンピックのテロ対策を目指していたことはいうまでもありません。
日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんが今回論じるのは、日本語のアクセントや方言のことです。その移り変わりや広がり方から、世が世なら、数世紀先の標準語は茨城・栃木・福島に分布する崩壊アクセントタイプになっていたかもしれないと語ります。まずは、日本語のアクセント分布図を検索の上お読みすることをお勧めします。
千年以上の長きに亘り日本の文化の中心地は京都であった。明治になって天皇の東京行幸に随伴する形で長らくその都(みやこ)文化の担い手であった公家のほとんどが在東京となった。その結果、公家出の華族・武家出の華族・江戸以来の平民・明治以後流入した平民などによって構成される巨大文化都市東京が生まれた。
以降、自然と東京発の事物こそが日本の標準形ということとなり現在に至るという訳である。我々が日々話す言葉もその例外ではない。現代の所謂標準語は東京を中心とする関東型アクセントによるものであること、周知の通りである。
しかし今、アクセント分布という観点から改めて日本地図を見直してみると面白い事実が分かる。維新後に入植が進んだ北海道と維新前までは一応独立国であった琉球を除けば、大体日本の国土は京都(関西)を中心にして北東・南西方向に等しく伸びていると言える。その北東部(岐阜県西部県境以東)と南西部(岡山県東部県境以西)は基本的には関東型アクセントだから、それをちょうど中央で分断するような恰好で関西型アクセントが存在する形になる。つまり、中央部が関西型アクセントで両端部が関東型アクセントという訳である。
この地図上に認められる言語事実を説明するのが所謂「方言周圏論」である。方言は京都を中心とした同心円状に分布するという論である。地図上にきれいな同心円ができないのは日本の国土の形状を考慮すればすぐ理解できるかと思うが、その円周のほとんどが海に没してしまうからである。
この言語事実成立のメカニズムを何とか説明しようと試みた仮説が所謂「言語波動説」なのである。言語が中心部である畿内から時代を下るにつれて波紋が広がるように同心円的に伝播した結果が方言であるという説である。
有名な「トンボ」の例を挙げて解説すると、東北には「とんぼ」を指す方言として「あけず」とか「あきず」というのがある。一方畿内を遙かに飛び越え遠く離れた九州にも「あけず」とか「あきつ」という方言がある。現代では関西地方(畿内)では「トンボ」は「とんぼ」としか言わないが、記紀万葉の時代には「あきづ」と言っていた例が確認されている。
ということは、上代に生じた「あきづ」の波紋が時間の経過とともに同心円的に伝播し、終に現代の東北の「あけず」「あきず」や九州の「あけず」「あきつ」となったと説明できるのである。これはおそらく、その言語事実の美しさから見てもまず間違いないであろう。ただ上述のことは「トンボ」というものを指す単語の形態のみに当てはまるのであって、アクセントに関して一切説明するものでないことは注意しておきたい。
人間「生きていくための指針」をしっかり持っていたいものですが、その道しるべとなるのが先人の教えです。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、哲学者・森信三が晩年書き上げた「幻の講話」を通じ後世に伝えようとしたメッセージについて、「家計をひきしめる処方箋」を事例に取り上げながらわかりやすく解説しています。
“国民教育の師父”と謳われた森信三先生による不朽の名著『幻の講話』。森先生が70代で執筆されたもので、生徒を対象に講話(授業)を進めていく形式で、年代別に各30篇、全150講話が収録されています。
『修身教授録』と並ぶ代表的著作といわれ、青少年への講話集でありながら、その内容は年代を問わず、「人間、いかに生きるべきか」の指針となるものばかり。そのページ数は、実に1,320ページにも及びます。
本書刊行に至るまでには、幾多の困難がありました。
昭和44年夏、先生は下稿の前半部を一気呵成に書き上げるも、その後、ご長男の事業の蹉跌・急逝……など、苦難や試練に次々と見舞われ、幾度も中断を余儀なくされます。完結までに足かけ5年の歳月を費やした本書は、森先生自らが「宿命の書」と名付けたほど、特別な思いを寄せられる作品。
その晩年に渾身の力を込めて青少年に訴えようとされた人生の根本問題とは何か──。そのメッセージは時代を越え、あらゆる人々の胸に響き渡ります。その内容の一部をご紹介しましょう。
経済というものは、丁度水のようなものでありまして、収入が多くなればそれに応じて、支出もまた多くなりがちなものであります。ですから、そうした意味からは、われわれ人間は生きているかぎり、経済に対して手放しでいられるということは、よほど例外的な場合以外には無いと考えてよいでしょう。
そこで最後に、家計を引きしめる上で、大切と思われる事柄を2、3申し添えることにいたしましょう。それは、
1.「入るを計って出ずるを制する」ということでありまして、これは経済上永遠不動の鉄則といってよいでしょう。
次には、
2.いかに安いからといって、当分不用の品は買わぬということ。
3.同時に、買う以上は、自分の身分より多少良いと思われる品を求めて、大切にして永く愛用すること。
4.なお予定しなかった品物で、ある金額以上の品物については、必ずその場で買わずに、その日は一たん家へ帰って、それでも尚どうしてもあきらめかねる様な場合には、財布と相談の上で、翌日もう一度出かけて行って買う様にすること。
この方が、たとえ交通費は使っても、結局は経済的になりましょう。
最後に
5.大きなお札をくずすのを、一日でもよいから先に延ばすことです(一同爆笑)。
とにかく、以上の五カ条をよく守られたら、たとえご主人の俸給が十分でないとしても、とにかく金に困るということだけは、終生なくてすみましょう……。
『森信三 幻の講話』 第3巻「育児と家計」より
image by: Shutterstock.com
もしもすべての家事を外注したとして、それでも残るものについて思いを巡らせたことはあるでしょうか。この「残るもの」こそ、人間が家庭という居場所に留まる根源的な理由となっているようです。今回の無料メルマガ『システマティックな「ま、いっか」家事術』では著者の真井花さんが、お金で買えない「安心や信頼」の重要性について考察しています。
さて、本日は家庭からなくならないもののお話。
我が家では、よくこんな会話をしています(^0^)
……( ̄∇ ̄) ツマラナイことで言い争い(?)になったときのお互いの決め台詞です。これには、返しがあって
……いや、実にクダラナイ。おのおの「自分で作るんじゃないのか」「自分で運転するんじゃないのか」っていうツッコミはあるんですが、お互い数回はできても、毎回は無理だろうって思うから言わないんですよね。言ったらやらされそうだし。
いや、ホホエマシイように思えますが、これがホホエマシイじゃすまないかもしれないんですよね。
ここからが本題です。料理もクルマの運転(?)も家事の一種でしょうが、世には家事の効率化に関するノウハウに溢れていますね。もっといえば、あらゆる家電は家事の効率化や時短化を目指しているわけですから、ノウハウどころか一大産業にさえなっているんです。洗濯機や掃除機、冷蔵庫など戦後に登場した家電は、さらなる進化を遂げていますからね。
これはとどのつまり
だと思うんです。家庭内のメンバーがその労力を提供しないわけですから、こう言ってみても構わないでしょう。実際に、ちょっとご家庭の中を見回してみてください。
…うーん、他になにかあるかな。躾は、あんまり外注されないですかねえ。保育園とかどうなんだろ。
うん、でね(◆_◆)
ってことはさ、ちょっと考えちゃいませんか。
って。もちろんおカネのことは度外視しているんですよ。考えるだけ。というか、超富裕層だったら、マジでこれはあり得る話だと思いますが。
家庭の機能だ役割だと言われているものは、家電やサービスの進展でどんどん外注可能になってきているんです。そうだとするとそれらすべてを外注した場合、
と思いませんか。そもそも何か残るんでしょうか。なにも残らないんでしょうか。もし、残るんだとしたら、それは超富裕層の家庭に最後まで残るもの、おカネを出しても買えないもの、ですよね。
……ここからは、私の個人的な見解です。いや、ここまでも個人的な意見だけども( ̄∇ ̄)
おカネの心配はしなくていいとして、すべての家事を外注したとしてそれでもヒトに
と思わせるもの。それってきっと根源的ななにかでしょう。本能に関わるようななにかなんでしょう。
本能っていうと、食欲とか性欲とか睡眠欲とかいいますが、これらのうち、食が一番外注が進んでいますね。でも、残りのふたつはあんまり外注されませんねえ。性欲は外注しようとすればできますが、そんなことを続けていると、家族から信頼されなくなって、家族ごと失いかねません( ̄∇ ̄) 睡眠も旅行先でホテルに泊まることはありますが、それは旅行に付随しているだけで、睡眠自体が外注されるわけではないですね。「ちょっと今夜の睡眠、買ってこようよ」みたいな話にならないですもんね。
この辺が外注の限界なんでしょうか。
人間が生きてゆく上で重要なセルフエスティーム(自尊感情)ですが、その感情をしっかりと持てない日本人は多く、「世界一低い傾向」にあるそうです。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では、著者で現役教師の松尾英明さんがその原因を考察するとともに、次代を担う子供たちのセルフエスティームを高めるために大人が留意すべき点を記しています。
セルフエスティーム(自尊感情)について。大学の授業で学んだ際に、面白い話があった。
セルフエスティームとは、簡単に言うと、「自分には生きている価値がある」と考えられる傾向である。日本では、「謙譲の美徳」が悪い形でここに反映しており、セルフエスティームが世界一低い傾向がある(特に中学生の女子が最低値になるというデータがある)。ある研修会で、高校の先生から次のような質問を受けたという。
「自分の苦手なところやダメなところを自覚するのも、同じくらい大切ではないですか」
皆さんは、どう考えるだろうか。
ここを、研修講師をしたその先生は、完全に否定したという。それは「間違い」であると。
それも大切だが、「同じくらい」ではない。セルフエスティームが高い方が、ずっと大切である。なぜなら、セルフエスティームが低い人間にとって、苦手やダメな点を自覚したところで、デメリットしかないからである。自覚させられたことにより、更に落ち込むことになり、より不活動になる。
つまり、勘違いしている方がずっといい。人間の可能性なんて、誰にもわからない。少なくとも、自分はダメだと思って諦めてしまうよりも、勘違いして行動する方が、伸びる可能性がある。まずは動かないと、伸びる可能性はゼロである。
子どもの教育では、まずこのセルフエスティームを高めること。苦手を意識させようとしなくても、本人はよくわかっている。それよりも、長所を伸ばす方に全力を注ぐ段階である。
幼稚園児相手に、「できないこと」を羅列して自覚させることの愚かさを考えればすぐにわかる。
「何でこんな簡単なことができないの!」
……子ども的には、何でそんなことを言えるのかを、大人の方に聞きたいところである。一番親身に考えているつもりの、親や教師こそが、最も子どもを「ダメ」にしている。
セルフエスティームを高める。
誰から。
大人からである。あなたがあなた自身の価値を信じることができなければ、子どもが自分の価値を信じることはない。大人のセルフエスティームの向上と、自信の確立。それができれば、子どもの可能性を信じることができる。
子どもにガミガミ言いがちだとしたら、自分自身のセルフエスティームの低さを疑ってみることが優先事項である。
image by: Shutterstock.com