詰んだ日本。千葉の大停電で判った衰退の一途を辿る島国の行く末

先日掲載の「台風15号被害で森田健作知事『誰が悪いわけではない』の無責任」で、台風による二次災害を「危機管理の失敗」と断じた米国在住の作家・冷泉彰彦さん。さらに冷泉さんは今回、自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、千葉県が襲われた被害により鮮明になった「我が国全体が直面する大きな問題」を指摘しています。

台風被災の千葉県に見る、衰退のストーリー

今回の台風15号による千葉県の被災については、読者の方から次のようなコメントをいただきました。

「いまひとつスッキリしないことがあります。日本は毎年のように台風被害が出る国であるにも関わらず、2週間経っても問題が一向に解決しないのは勿論千葉県の対応が悪いにつきますが、国全体が疲弊していることを象徴しているからだと思います」

これは私も強く感じていたことです。今回の経緯は危機管理の失敗ですが、その背景には、この問題があり、むしろこの「国の疲弊=衰退の問題が本筋のように思えてなりません。

この問題ですが、次のような理解をしています。

例えば、ある国(A国)が一人当たりGDPで2万ドルぐらいの中進国になったとします。まだまだインフラが整備されておらず、つい数年前までは完全に途上国で人権も弱ければ防災体制なども貧弱だった、それを少しずつ改善しているというケースを考えてみましょう。

一方で、日本の場合は一時は一人当たりGDPが4万ドルとか5万ドルという堂々たる先進国であった時期もありますが、現在は3万ドル台で低迷しています。

同じように厳しい台風被害にあったとして、A国の場合はまだインフラや体制が整備されずに、復興が遅れたりして政府が批判されることはあるでしょう。

一方で日本の場合は、先進国としての制度もインフラもできているわけです。ですが、国が疲弊し、地域別に衰退が加速する中では、「先進国型の制度やインフラかえって足手まといになるとか邪魔をする」ということがあると思います。

具体的に見て行きましょう。

まず基本的な部分としては、あらゆる事務作業がコンピュータ化されたり、情報伝達がネットや携帯回線中心になっているそのことが脆弱性になっているという問題があります。

勿論、東日本大震災の経験などから停電ということは想定していたわけですが、想定をはるかに上回る長期間の停電に対しては情報伝達にしてもライフラインの維持にしても全くの崩壊に至ってしまったわけです。

問題は、電気に依存するテクノロジーが使われていただけではありません。テクノロジーによる省力化によって、物理的な要員が削減され要員自体がいざという時には人力で実務のバックアップをするパワーは全く持たされていなかったということがありそうです。

例えばですが、館山市にしても、千葉県庁にしても、「どうもおかしい、これは大変なことになっている」と気づいた時点で、全域を人力で調査すれば被害の概況も判明したし、人命が危険にさらされている状況もある程度は把握できたはず、私もそう考えた一人です。

ですが、特に館山市などの場合は、「そのような要員もなかった」ようです。自転車や自動車でコミュニティをローラー作戦的に調査するどころか、殺到する電話への対応も十分でなかったのです。

要員の問題は、行政コストの資金が用意できていないということです。冷静に考えれば、「平成の大合併」というのは、何も「民間に比べて地方自治体が高給だったり、要員に無駄がある」から市町村を合併させてリストラしようとしたのではありません。

そうではなくて、引退世代ばかりの地域では、税収も極めて限定的な金額になる中で、行政を簡素化しないと自治体が破綻してしまうのです。そのようにして、広域合併が行われ、非常に脆弱な役所が非常に広域な地域を所轄するようになっている、そのことによる脆弱性ということも無視できません。

そうした電力依存のテクノロジー、その裏腹としての要員カットということが、今回は大きな問題として浮上したわけですが、問題はそれだけではありません。

電力に関しては、今回の停電の長期化については役所も世論も東京電力に対する批判を強めています。ですが、東電の社長や役員がこの問題で会見したことは恐らくないと思います。

というのは、今回問題を起こしたのは東京電力ではないからです。

世界的エンジニアがiPhone11を手にして確信した国産自動車の末路

本国アメリカでのリリースから10日後の9月20日、日本でも販売がスタートしたiPhone11。各メディアには早くもさまざまなインプレッションが掲載されていますが、世界的エンジニアは同機の実力をどう評価したのでしょうか。「Windows 95を設計した日本人」として知られる中島聡さんが、メルマガ『週刊 Life is beautiful』でレビューしています。

※ 本記事は有料メルマガ『週刊 Life is beautiful』2019年10月1日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール中島聡なかじまさとし
ブロガー/起業家/ソフトウェア・エンジニア、工学修士(早稲田大学)/MBA(ワシントン大学)。NTT通信研究所/マイクロソフト日本法人/マイクロソフト本社勤務後、ソフトウェアベンチャーUIEvolution Inc.を米国シアトルで起業。現在は neu.Pen LLCでiPhone/iPadアプリの開発。

iPhone11

3年ぶりにiPhoneを買い換えました。iPhone7は大きさも気に入っていた上に、iPhoneXから導入された上部のノッチ(カメラとセンサーのためにディスプレイが欠けた部分)が嫌いだったので、買い替えは控えていたのですが、日本出張の際に100%キャッシュレスにしようと思うと、SuicaにApple Cardでチャージする必要があるため(通常のSuicaは現金、もしくは、セットになったクレジットカードでしかチャージ出来ません)、iPhoneを新しくする必要があったのです。

大きさは許容範囲ですが、ノッチは「Appleらしくない」と感じています。スティーブ・ジョブズが健在であればノッチのような美観を損なうものを許したかどうか疑問です。

私であれば、裏側に自撮り専用のディスプレイ(前面である必要はなし)をつけることにより、ノッチを回避しただろうと思います。そんな設計にすれば、背面のカメラにリソースを集中できるので、全体の設計としてもバランスが良くなります。OLEDはバックライトが不要で薄いので、両面につけても今の厚さを維持出来ると思います。

AppleがカメラをiPhoneの最も重要な機能の一つとして捉えているのであれば、それが最も自然なデザインだと思います。

話をiPhone11に戻すと、今のところとても満足しています。Face IDは順調に動作しているし、大きな画面は映像を観たり漫画を読むには最適です。ズボンの後ろポケットに入れるにはこれが最大なので、これ以上大きくしては欲しくないと思います。

同時に入手した純正の透明ケースは、見た目は素晴らしいのですが、とても滑りやすいので、ポケットから出した時に落としそうになるのが若干問題です。賢い業者は、このケースむけの滑り止めのシールなどを発売してくるでしょうが、本末転倒のような気もします。

念願のSuicaを早速試してみました。日本で使っていたのがPasmoだったのでその残金を取り込むことが出来ず、Apple Cardで新たに1,000円チャージしました。前にも書きましたが、(米国で発行された)Apple Cardで日本円を使っても、他のクレジットカードのように余計な為替手数料を取られないので、安心して使えます。

次に日本に出張した時には、100%キャッシュレスで1週間過ごせるかどうか試してみたいと思います。

iPhone11の目玉でもあるNight Modeも早速試してみました。

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上の写真は、シアトルにある建物の中から窓ガラス越しに撮影したものです(空に見えているUFOのようなものは室内の照明が写り込んだものです)。すっかり日が沈んだ後にも関わらず、建物や空が綺麗に撮れているし、木の間から見えている道路まで綺麗に撮影されているのは驚きです。

通常のカメラで撮影すると、肉眼で見たよりも暗く撮れることが多いのですが、iPhone11のNight Modeだと、逆に暗い部分が明るく見えます

もっと暗い状況でも撮影してみましたが、肉眼では暗すぎて読めない文字まで読めるようになるので、ほとんど「暗視カメラと呼んでも良いほどの能力です。

ニッポン大丈夫か。在韓31年の日本人が山本太郎を応援する理由

経済成長を失い世界でも類を見ない「デフレの20年」を送った我が国日本。その間に貧困問題はじわじわと広がってしまっているようです。今回の無料メルマガ『キムチパワー』では韓国在住歴31年の日本人著者が、韓国と日本の生活レベルで感じる豊かさの差や、市民の生活水準が総じて貧しくなっている日本の異常事態をわかりやすく訴える、山本太郎氏の衝撃の演説内容を紹介しています。

日本を立て直す

このメルマガ、いちおう基本コンセプトは韓国に住む日本人が、韓国の生のフェーズ(phase)を日本語で日本の方に紹介するというもの。それで、はじめのころは韓国語講座みたいなものをやったり、韓国で免許をとろうというテーマで免許に関する韓国語講座みたいなものをやったりといろいろやってきて、4年ぐらい前から今のスタイルの韓国時事的情報を中心として発信している。

でも考えてみると、あくまで筆者のアイデンティティは日本人であり日本のためになることを願うメルマガでもある。日本のため(ひいては世界のため、あるいは人類のため、地球のため)になるのならば内容はどんなことでもいいんじゃないのか。発信する内容はなにも韓国情報にかぎらなくて、自由に書いてもいいんじゃないのかと思うようになってきた。

なぜこんな前置きのことばを書いたかというと、最近山本太郎が北海道から駅前街頭演説ツアーをやっているユーチューブをみて非常に感銘をうけ、いてもたってもいられない心境になったからである。

れいわ新選組

太郎氏本人は今は参議院議員ではない。この前の選挙で落選したゆえ。でも「れいわ新選組から二人の議員を国会に送ることに成功し、本人は同党の党首だ。議員時代よりもっと忙しいと本人は言っている。

太郎氏の「北海道旅打ち演説会」を見てはじめて知ったのだけれど、日本ってこんなにもヒンコンだったのか。子どもたちの7人に1人が貧困、高齢者5人に1人が貧困、障碍者4人に1人が貧困、単身女性3人に1人が貧困。こちら韓国でもよく言われるのは日本は国は金持ちなんだけど個人は貧乏なんだという話。ネット記事をみると、韓国が日本の貧困率をみてばかにしているとか、そういうくらだらない記事が目に入るけれどそういう話ではない。

実際こちらで暮らしていて感じるのは、マンションの作りが韓国のほうがはるかに豪勢」だし、不景気だとはいっても人々の購買意欲とか建設事業の活発さは日本よりはやはり高いレベルにあるといったことども。

30年前、筆者が韓国に来て語学の勉強したりしているころ、たまの一時帰国で田舎に帰り、久しぶりに幼馴染にあってしゃべったとき、「韓国にも信号ってのがあるかい」と聞いてきた友がいた。「おめえ、知らねえのもホドがあるべ」とやつの顎にストレートをかましてやりたい気持ちをぐっと抑えて、「こんど、来てみろよ」とおだやかに言ったことをきのうのことのように思い出す。

あれから30年(実際には31年)。日本も変わり、韓国も変わった。今でも勿論日本のほうが経済的にもノーベル賞的にもはるかに「上」をいっているけれど、どこまで持つかいな?という気持ちが太郎さんの「旅打ち演説会」を聞いて、ものすごく強くなっている。日本危うし

でも、こういうことはある。2017年の4月ごろ、北朝鮮のキム・ジョンウンが弾道ミサイルはぶっとばすわ、核実験はするわで、周辺国がパニックに陥ったときがあった。すぐにでも韓国のソウルが火の海になるんじゃないのかといわれたことがあった。筆者もこのメルマガ(キムチパワー#159)でも書いたけど、風雲急を告げる韓国情勢ではあった。日本にいる友らからも、「おい、大丈夫か」というメールやラインをもらったりした。でも、韓国にいる当事者(わたし)は、けっこう何事もなく天下泰平といった気持ちで過ごしていたことを思い出す。つまり当事者というのは周りで心配するほどではないという定理があるということ。こういうことを思うと日本の貧困に関しても案外当事者日本の方たちはけっこうそんなこと実感せずにすごしているのかもしれない。

なぜ、繁盛している居酒屋のポテトサラダは絶対に美味いのか?

日本全国どの居酒屋にもかならずあるメニューながら、マニアが存在するほどの「小皿」があります。今回の無料メルマガ『繁盛戦略企画塾・『心のマーケティング』講座』では著者で繁盛戦略コンサルタントの佐藤きよあきさんが、そんな「ポテトサラダ」が美味しい居酒屋が繁盛する理由を記しています。

「ポテトサラダ」が美味しい居酒屋は、必ず繁盛する

「ポテトサラダ」。

洋食では、ビフカツ、エビフライ、ポークジンジャーという主役を力強く支える千切りキャベツの横で、静かに出番を待っている“準脇役的な存在です。いてくれれば嬉しいのですが、いなくても、舞台にはさほど影響は出ないと言えます。

和食ではあまり姿を見せないのですが、セルフのご飯屋さんでは、一番安い小鉢として、手に取ってもらえるのを待っています。しかし、「しらすおろし」や「わかめ酢」のような定番小鉢には勝てないでいます。

スーパーの惣菜売り場では、そこそこの人気があり、多くの仲間たちと整列していますが、各家庭の食卓に並ぶ時は、「何か一品足りないという場合の臨時雇いです。

どの場面においても、あまり光を浴びることのない、淋しい存在。それが「ポテトサラダ」です。

しかし、一カ所だけ、小さなスポットライトを当てている場所があります。おじさんの聖地・居酒屋さんです。「アヒージョ」が食べられるような洋風居酒屋でもなく、ワイングラスで乾杯するようなお洒落居酒屋でもありません。常連さんばかりが集まるような、街の片隅にある、カウンターが黒光りしている居酒屋さんです。

多店舗化せず、たった一軒を長く守り続けているお店。老舗の風格などありませんが、お客さまが世代をまたいで通っているお店。そんなお店に、スポットライトを浴びる「ポテトサラダ」があるのです。

もちろん、「おしながき」のトップにはきません。さりとて、単なる品揃えとして端っこに書かれているわけでもありません。属するジャンルがハッキリしないせいか、「おしながき」の後半、前の方にポツリと目立っていたりします。この場所が、居酒屋さんにおける、「ポテトサラダ」のポジションなのです。

「メインとしてお奨めするわけではありませんが、ちょっと眼を留めていただければ、決して期待を裏切りませんよ」という主張なのです。お客さまの眼にも留まりやすい位置です。お店としても自信を持っているメニューなのです。

また、こういう居酒屋さんには、「ポテトサラダファンが多いものです。いや、マニアと言っても良いでしょう。居酒屋さんの「ポテトサラダ」を食べ歩く人もいます。「ポテサラ酒場」という本が出版されていたり、「ポテトサラダ学会」という集まりもあります。それほど、居酒屋さんの「ポテトサラダ」は、静かに注目されているのです。

なぜ、居酒屋さんの「ポテトサラダ」なのでしょう。それはずばり、美味しいから。居酒屋さんの「ポテトサラダ」は、お店によって個性がまったく違います。具材も違えば、調味料も違います。お店それぞれに工夫があって、食べ歩きする人の気持ちはよくわかります。

惣菜として売られている「ポテトサラダ」は、世間からはやや軽く見られていますが、実は非常に難しい料理です。しっとりとしていて、ほくほく。具材の存在感を引き立てながらも、じゃがいもの旨さも消してはならないのです。マヨネーズをケチるとボソボソになりますが、多すぎると酸味がキツくなります。さじ加減が難しく、料理の腕が試されるような存在なのです。

だから、居酒屋さんではさまざまな工夫で、美味しく作っているのです。つまり、美味しいポテトサラダを作る居酒屋さんは料理の腕も良いということになります。「ポテトサラダ」でそのお店のレベルがわかる、と言っても良いでしょう。

居酒屋さんは、どれだけ珍しいお酒を揃えていても、それだけでは繁盛しません。やはり、美味しいものがあってこそ、「酒と肴」を楽しむお店となれるのです。「ポテトサラダ」は、そんなお店を見つけ出すための指標となる料理なのです。

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まずはゴミをゴミと認めて捨てる。片付けグセをつける簡単な方法

書店を見回すと、全米でブームとなったコンマリさんをはじめ、さまざまな片付け本が出版されています。それらの中で「捨てる」ことが大事にされてはいますが、捨てるのもけっこうなストレスが伴うものですよね。今回の無料メルマガ『システマティックな「ま、いっか」家事術』に記されているのは、著者の真井花さんからの、片付けの基本中の基本、ゴミ捨てをクセ付けしてしまおうという提案です。

ゴミ捨てクセ

さて、本日は捨てるもののお話

ワタクシ、なぜか最近

  • 不要品の処分

に励んでいます(*^^)v

  • 首回りがユルノビしてきたカットソー
  • ゴワゴワしてきたタオル
  • サイズのビミョーなプラ鉢
  • フタの壊れたタッパ
  • 旅行先のチケットやパンフ
  • 存在を完全に忘れていた古いサンダル

などなど。なんだかターボがかかっているんですよ。その割に我が家がスッキリ片付いた感がないのは、なぜなのかしら。それだけモノに囲まれて過ごしているからかもしれませんね。

コンマリさんの登場から片付けがブームになって数年。片付け流派(?)がたくさん出て来ましたね。どの流派を好むかに拘わらず、片付けの初手は

  • ゴミを捨てること

です( ̄∇ ̄)。ゴミって、あのゴミですよ。ゴミ箱に入っているあのゴミです。散らかっている、片付いていないと嘆く方の大半は、整然とした中にセンスの光るインテリアの部屋…みたいなのを妄想していますが。

が!それは遠い目標としてとっておきましょう。いきなりそんな部屋にはなりません(キッパリ)。その妄想にはいろいろなバリエーションがありますが、もっと足下に共通するのが

  • ゴミを捨てること

です。散らかっている部屋、片付いていないと感じる空間には

  • 100パーセント例外なく

ゴミがあるものなんです。ちなみに、ここで言うゴミとは

  • 捨てるかどうか判断する迷う時間が全くないモノ

のことです。片付けや断捨離では、ある基準によってモノを処分するかどうか判断しますね。これは逆に言えば、

  • 見ただけでは分からないモノ

が対象だということです。ゴミかどうか、基準によって判断されるまで分からないもののことです。ところが、この基準を当てはめてなにかを処分するかどうかを判断するのは言われているほど簡単じゃないんですよね。なので、ここではこうした「見ただけでは分からないモノ」はゴミに含みません。誰が見てもいつ見てもはっきり明らかにゴミだと分かるもののみです。

  • そんなの、たくさんあるわけないじゃない…

と思います?それがそうでもないんですよ。多くの場合、モノを捨てることには心理的な苦痛が伴います。なのでモノを捨てることは

  • 先送りしがち

なんですよ。だから、改めて「コレは?」と尋ねられればゴミとしか答えようのないモノがいつの間にか溜まるんです。

そして、モノの処分には慣性の法則とも言うべきモノ(?)があって

  • 一度処分し始めると処分についての決断クセがつく

んです。逆に言えば、処分しないでいると、どんなにボロくなっても壊れていても腐っていてもサイズアウトしても、そういった外的な条件が揃っても、処分できないんです。クセがついていないからです。

なので、まず、ゴミを捨てましょう。一度ゴミをゴミと認めて捨てるとクセがつきはじめそれだけでかなり片付きます

秋の初めゴミを捨てて。クセをつけることで片付けはグッと進むようになりますよ。

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新月の時期にダイエットを始めても上手くいかない納得の理由

はるか昔から、生物に影響を与えてきたとされる月。とくに「新月」はエネルギーに満ちているといわれています。今回の無料メルマガ『システマティックな「ま、いっか」家事術』では著者の真井花さんが、秋の新月について詳しく解説し、「何をすると効果が出やすいのか」について紹介しています。

天秤座の新月

さて、本日はお月様のお話。

秋分の日が過ぎたところで、新月となりましたね。

田舎に住んでいると、新月の夜は真っ暗です。夜に窓から外を見ても、庭先も見えないくらいです。月はここから徐々に光を増し、だんだん膨らんでいくわけです。そのため、新月には

  • 増やす広げる始める

エネルギーが満ちているといわれています。なので、ダイエットなど「減らす」方向性のものは、この時期に始めても上手く行きにくいんですよ。

あなたの人生で「増やしたい」「広げたい」「始めたい」ものがあるのではないでしょうか。それを新月の時期に始めると満ちていく月のエネルギーの後押しを受けて、上手く行きやすいんですね。

そして、今回新月は

  • 天秤座

で起こりました。天秤座は

  • 対等なパートナーシップ
  • バランスのとれた振る舞い
  • 美的なセンス

を示す星座です。なので、これに関連するようなコトを増やしたり広げたり始めたりするとますますイイわけです。たとえば、こんな感じでしょうか。

  • バランスを考えた食習慣を身に付ける
  • パートナーと一対一の会話を楽しむ
  • 飲み会やイベントなど人が集まる場所に出掛けるようにする
  • プチ贅沢なファッションアイテムを買う
  • テーブルマナーを学んで、優雅なしぐさを身に付ける
  • デスクにバラの花を飾る

出来そうなもの、やってみたいものはありましたか?

また、

  • ヒップアップには結果の出やすい時期

です。ヒップアップに効くヨガやストレッチを始めたりするのもいいと思いますよ。

秋の新月。ちょっと美しくてバランスのいいことをやってみてくださいね。

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遠のく大英帝国「再建」の夢。誇りに縛られ凋落のパラドックス

英国の新首相ジョンソン氏は、以前から英国EU離脱運動を扇動、さらに「何が何でも離脱」といった就任演説も注目を集めましたが、こうした首相の派手な言動が今の英国の国力に合致しない面もあるとの見方も存在します。ジャーナリストとして数々のメディアで活躍中の嶌信彦さんは無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』の著者で、「かつての大英帝国」が今、ヨーロッパで置かれる現状を冷静に分析しています。

歩きながら考える英国はどこへ?

昔、国民性を表す小話としてよく聞いた言い回しがあった。

「イタリア人は駆け出してから物事を考える」
「慎重な日本人はよーく考えてから歩き出す」
イギリス人は歩きながら物事を考え判断する

そのイギリスの新首相ボリスジョンソン氏は、任命された直後の就任演説で「何が何でも10月末に欧州連合を離脱する」と宣言。新たな閣僚人事でも前任のメイ首相のメンバーを大幅に変えた。ジョンソン氏はイギリスの欧州連合(EU)離脱が決まった2016年の国民投票で、離脱キャンペーンを先頭に立って旗を振った人物だ。当初は離脱派が敗北するとみられていたが「私は困難な状況でも驚くような結果を出してみせる」と豪語し、勝利を導き出した。

ジョンソン氏の父が欧州委員会の職員だったため、EUの首都ベルギーのブリュッセルで少年時代を過ごした。祖父はトルコ系イギリス人だが、先祖にはユダヤ系ロシア人もいてグローバル化時代のEUを体現している人物ともいえる。オックスフォード大学を卒業後、英紙ザ・タイムズやデイリーテレグラフ紙の記者を務め、2001年に下院議員に当選して政界入り。08年から16年までロンドン市長だった。その後メイ政権の外相となったがメイ首相のぐらつくEU離脱方針に反発し去年7月に辞任していた。

ジョンソン氏の発言は、派手で“合意なきEU離脱を述べるなどイギリス第一を主張するところは、アメリカのトランプ大統領と似ているところがあり、トランプ大統領は「彼は素晴らしい首相になるだろう」と祝辞を送っている。ただEU離脱が将来にわたってプラスとなるかどうかは、いまなお議論が多く、イギリスの凋落につながるとの懸念も強い。

イギリスは1516世紀までは世界のリーダー国を誇り、アフリカからアジア、オーストラリア、アメリカ、カナダなどの支配権を持っており、大英帝国が世界の覇権を握っていたのでかつての英国の再興を夢見る英国人は多い。しかし第二次大戦でドイツが台頭、大戦後はアメリカとソ連が世界を支配し始めると英国は覇権国から落ちこぼれた。

現在のヨーロッパはドイツフランスを中心にまわっており、英国がEUから離脱すれば、金融の中心からもはずれ、英国に工場などを置いていた国々も欧州大陸へ移るだろうと予測されている。かつての大英帝国の誇りに縛られているとますます凋落が続くとみる向きが強い。歩きながら理性的に判断するといわれたイギリスの国民とジョンソン首相はこの秋までにどんな知恵を出し名誉あるEU離脱をはかってゆくのだろうか。

(財界 2019年9月10日号 第502回)

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よく考えれば判る。優秀な経歴だけを持つ人を採用すべきでない訳

超がつく一流大学の卒業者、非の打ち所のない経歴、難関資格ホルダー…。「こんな人たちは引く手あまたなんだろうな」と考えがちですが、世の中そう甘くはないようです。今回の無料メルマガ『サラリーマンで年収1000万円を目指せ。』では著者の佐藤しょ~おんさんが、中途採用の現場で感じた「企業の求める人材像」についてわかりやすく解説しています。

良い経験と悪い経験

キャリア採用(中途採用)をやっていると、煌びやかな経歴を持っている人に出逢うことがあります。学歴は言うに及ばず、今までの会社も、そこでやって来た仕事も、その成果も、どれかひとつあるだけで、充分に評価されるよねというトラックレコードを持っている人に、年に一人くらいはお会いしたモノです。

ところがこういう人を採用したことはありません。というか、ほとんどは書類審査で落としますね。

そりゃオマエが高卒だからコンプレックスを持ってるんだろう?って考えたらダメですよ。私のコンプレックス(実は全くコンプレックスに思っていませんが)と、会社という組織が達成すべきゴールとでは、どうやっても後者の方が重要なんですから、本当に良い人なら採用するに決まってるでしょ

本当に良い人なら…問題はここなんですよ。

非の打ち所の無いトラックレコードを持っているということは、まさに非の打ち所が無いんだから、これは最優秀ってことになる…わけがないところが、社会の面白いところなんです。

その経歴や実績が事実であって、全然盛っていないモノだとしても、

 ■ だからこそ、そういう人は採用しない

のですよ。経歴が素晴らしすぎるから、あえて採用しないのです。

どうしてかというと、

 ▼ 努力して力を付けて

 ▼ 頑張って成果を出して

 ▼ 身に付けた知恵や才覚を使って業績を上げた

からこそ、人生に於いて良い経験ばかりをしているから

 ▼ 挫折した時に立ち上がれなかったり

 ▼ 失敗した人の気持ちが分からなかったり

 ▼ 成果が出ない人に優しくなれなかったり

するんですよ。出来て当たり前、やるのが当然、なんでやらないの、どうしてもっと頑張らないのと考えて良いのは、その人がまだジュニアで下っ端の頃なんですよ。人の上に立つような立場になったら、それだけじゃダメなんです。出来ることやれることが基準になっている人が責任者になるとギスギスした組織になるんですよ。

人間って、人生ってバランスが取れるモノですから、良かった経験と同じボリュームで悪い経験もするはずなんですね。その両方を経験するから、丸い人間になれるわけです。ところが学校も一流会社も一流成果も資格も一流となると釣り合いが取れないわけです。

ってことは、確率的にウチの会社に入ってから、釣り合いが取れるようなネガティブな経験をするかも知れないじゃないですか。そしてそんな人は、そんな負の体験を乗り越えられないんですよ。だって負けたり、裏切られたり、悔しい思いをしたり、ウソつかれたり、死にたくなったりしたことが無いんですから。そこを乗り越えられるかどうか分からないじゃないですか。

よしんば、そういうネガティブなことが無くても、挫折を知らない人が組織をまとめるのって非常に胆力が要るモノでして、こういう経歴を持っている人の10人に一人いるかいないかなんですよね。それはそれでリスクを背負うわけです。

だから大きく成功したいのなら大きく失敗した経験も持たなきゃダメだと思うんですよ。死にたくなるような経験も、悔しくて泣いてしまった経験も、あの野郎殺してやるって経験も持っているべきなんですよ。

そういう経験が無いと、正しいとは、努力とは、成果とは、喜びとは、チームとは、ありがたいとは、という大きな価値観が薄っぺらになるんですよね。

だから優秀なだけの人間には興味は無いんです。

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外国人の彼から求婚され「親に会って」と言ったら別れ話のナゼ

日本のマスコミではあまり報じられない海外のメディアのニュースを、本当はどう報じられているのか解説する無料メルマガ『山久瀬洋二 えいごism』。今回は、周りからみると笑い話でも当人同士にとっては深刻な事態になりがちな、異文化コミュニケーションの誤解について解説されています。

異文化での誤解は喜劇そのもの、そしてそれは深刻な悲劇

【ニュース解説】

文化が異なれば、人は異なる行動様式をもちます。ですから、そんな行動様式に支えられたコミュニケーションスタイルも自ずと文化によって異なってきます。そこから発生する摩擦は、このチャップリンの言葉の通り、一見滑稽でそれをネタにすればジョークにもなれば、一人でクスクスと笑ってしまうこともあるのです。
しかし、そんな摩擦に見舞われた本人にとっては、それは実に深刻なケースとなっていることも多いのです。

ここに一つの事例を紹介します。
私のアメリカ人の友人が日本に滞在していたときのことです。彼は一人の日本人の女性と仲良くなり、付き合うようになりました。

ある日、二人はビーチに行き、夏の海を楽しみます。そして、夕暮れ時に、彼はちょっとムードを盛り上げようと、夕日を見ながら、「こんな美しい夕日をずっと一緒にみていたいねと彼女に語りかけました。彼女は「うん」と頷いて彼の肩に寄り添います。

さて、翌週のこと、彼女は両親に会って欲しいと彼にいうのです。どうしてだろうと彼は思い彼女に聞いてみると、彼からプロポーズをされたものと彼女は思い、両親に相談をしたというのです。私の友人は、そこまで真剣に彼女と付き合ってはいなかったのです。それで戸惑いながら、「ちょっとまってよ」というと、彼女は当惑し目からは涙。結局二人はその行き違いがもとで別れてしまいます。これは実話です。

ここで、問題になった「こんな美しい夕日をずっと一緒にみていたいね」の一言は何だったのでしょう。

日本人はコミュニケーションをするとき、とかく婉曲になってしまいます。直截にものをいうよりも、一呼吸置いて、言いたいことを比喩や周辺の様子などを語りながら、間接的に伝えることが多いのです。むしろそのようにした方が言葉に重みがあると思う人がいるほどです。

それに対して、英語を母国語とする人は直接語る内容をそのまま相手に伝える習慣があります。ですから、「夕日をみていたい」ということは、「本当に一緒に美しい夕日をみて、またいつかこんな機会があればいいのに」と言ったに過ぎないのです。言葉通りに自分の思いを直接伝えたに過ぎないわけです。

しかし、日本人のガールフレンドはそのようにはとりませんでした。彼が婉曲にプロポーズをしたと思い込んだのです。
この話を聞いたとき、そこに集まった友人はみんな大笑いをしました。そして、お前は悪い奴だよねといって彼をからかいました。

そう、このエピソードは遠くからみれば喜劇なのです。しかし、実際はというと彼女は傷ついたはずです。もしかしたら、私の友人に裏切られたと思ったかもしれません。彼女にフォーカスしてこのエピソードをみれば、それは深刻な悲劇です。

脱競争原理のオタク主義。勝負せず生きていくために必要なこと

時代が変わっても社会の仕組みをそれに応じて変えていくのは容易ではありません。それでも変えていかなければならないものの一つに、この国の教育手法をあげる人は多いのではないでしょうか。メルマガ『j-fashion journal』の著者で、ファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、競争的教育手法が採用された背景と、そこから生まれた価値観について解説。現代の多様な価値観と生き方を踏まえた教育の必要性を伝えています。

競争的な教育手法は正しいのか?

1.国家のための教育、個人のための教育

国家が「教育」を国民の義務にする。教育こそ、国が強くなる手段である。しかし、教育を受ける側は、国のために教育を受けているという意識はない。自分のために教育するのだ。教育を受けることは、個人を幸せに導く手段であり、国を豊かにする手段でもある。両者の利害は一致していたのだ。

しかし、昨今の状況を見ると、「時代の変化と共に教育の中身を見直す時期に来ているのではないか」と思う。国家にとっても、個人にとっても、現在の学校教育は機能していないのではないか。

かつての日本が必要としていたのは、大多数の工場労働者と、一部のエリートであった。理想の工場労働者は、均一な品質であること。時間を守り、約束を守り、協調性があること。全員が最低限度の知識を持っており、それを共有していること。従って、赤点を取ってはならない。得意なことを伸ばすよりも、できないことを平均点まで持っていく。均一な労働力を育成する。教育の目的だったのだろう。

エリート教育は、工場労働者の教育とは全く次元が異なる。こちらは徹底した競争により、能力のある者を選抜していく。スタートは同じでも、途中から国立や私立の有名校に進学する。そこでは、均一な人材ではなく、考える力を付けていく。経営、マネジメントなどの基礎となるものだ。ある意味では、支配者側の教育である。あるいは、国家に貢献する各専門分野の研究者、エキスパートを育成する。

2.競争原理から生まれた価値観

個人の幸せを追求するには、何としても選抜に勝ち残らなければならない。競争に負ければ、先がない。そこで学校だけでなく、塾に通う。それだけでも飽き足らず様々なスポーツ教室に通う。しかし、スポーツの世界も一部のプロフェッショナルだけがスポーツで生活できるのであって、ここでも競争に勝ち抜かなければならない。幸福とは競争の果てにあるもの。そういう思想が刷り込まれるのだ。

しかし、当然のことだが、学問でも、スポーツでも競争に勝ち抜くのはほんの一握りの人であり、大多数の人は競争から脱落していく。競争から脱落した人は、どこかにコンプレックスを抱えている。競争に勝てない人は「平凡な暮らしの中で幸せを見つける」という価値観を押しつけられる。なぜなら、競争に負けたのだから。

勝った者も負けた者も、競争原理から導き出された価値観を押しつけられている。これは正しいのだろうか。